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文通〜未来へ繋がっていた手紙

私は86年生まれだが、小学生当時まだ文通が存在していた。

中学生の時にiモードが出現し猛スピードでネットが普及したので、もしかしたら文通が成り立っていた最後の時代かもしれない。


と言っても、小学4年生当時、クラスで文通をしていたのはおそらく私だけだった。

教室に行くまでの階段横に、小学生新聞が掲示されていた。

私以外に読んでいる人を見かけたことはない。

とてもひっそり、至極地味に設けられたスペースだった。

全国の小学校で起こったことや小学生向けのコラムが載っていて、読み終わっては更新されるのを楽しみに待っていた。


その新聞には文通相手を募集するコーナーがあった。

個人情報厳守の今では考えられないが、個人の名前と住所が掲載されていたのだった。

毎回2〜3人しか掲載されていないが全員に送るわけではない。

趣味が同じだったり気が合いそうな子を厳選して、手紙を書いて送った。


送ってしばらくは、家のポストを覗くのを楽しみに帰宅した。

届いている日は、ランドセルを置いてすぐに封筒を開け、顔も知らない子が私に書いてくれた手紙をじっくり読んでいた。

新しいレターセットや流行りのラメペンを、近所の文房具屋に買いに行くのが楽しみで仕方がなかった。


その内、元祖プリクラが流行り始め、お互いに送り合い

「ああ、この子から手紙が届いているんだ」

と、顔を見ては”実在する文通相手”の存在を実感したものだ。

誕生日には、封筒に収まるサイズのハンカチなどのプレゼントを送ってくれる子もいた。

出会いのきっかけは小学生新聞なので、小学生にしてわりと意識の高い子たちが多かったように思う。

毎日新幹線で進学校に通っている子、私立中学を目指して勉強に励んでいる子などもいた。

私は公立に通うごく普通の小学生だが、私が想像もしない世界で日々生活を送っているみんなの日常を知るのがとても楽しかった。

日本全国から手紙が届くと、閉鎖的は田舎のコミュニティから離れた広い世界とつながっている気がしてとても開放感があったのだ。


文通の醍醐味は、学校の友だちには言えない内緒の話を心おきなくできること。

普段一緒に学校生活を送っていると、どうしても色んなことを気にして悩みを打ち明けられなかったりする。

特に、誰かに何かを相談することが苦手な私は、相手が学校に一切関係のない子だと安心して自分の思いを文章にできた。


「直接会っていなくても、文章でつながっている世界」


後に普及した、メル友やSNSの元祖が文通だと思う。



私は、人生で2人の文通相手に実際に会った。



一人は東京の子で、お互いジャニーズJr.にドハマりしていた。

彼女とはお互いの推しについて熱く語り合い、毎回恒例のごとく雑誌の切り抜きを送り合っていた。

中学1年生の時に東京ドームでコンサートがあり、一緒に行こうということになった。

周りは誰も持っていない時代だったが、私たちはお互い携帯電話を持っていて、手紙のやり取りを超えて電話で話したりもしていた。

なので、会うのもきっと大丈夫ということになったのだ。

許可を出してくれた母に感謝したい。


田舎者の私にとって東京は、冒険レベルの大都会だった。

しかし緊張は全くなく、見るものすべてが初めてで新鮮でワクワクがいっぱいだった。


はじめての対面はとっても嬉しくて、ああ手紙をくれてたこの子はほんとに生きているんだ!!と感動した。

同い歳の同じ8月生まれで、名前も同じNatsumiで運命を感じずにはいられなかった。


彼女は渋谷や原宿を慣れた庭のように歩き、マツキヨでコスメを試してメイクしたり、一緒にプリクラを撮ったり、自動改札もスイスイこなしていた。

四国には電車が通っておらず(未だにディーゼルの汽車!)、私にとって初めての自動改札はドキドキ新鮮だった。


コンサートはもちろん最高に楽しく一緒に盛り上がり、彼らを生で見られてとても幸せだったが、彼女とバイバイする瞬間がとっても寂しかった記憶が一番強い。

次はいつ会えるんだろうか、遠く離れているしもしかしたらもう二度と会えないかもしれないと、とてもセンチメンタルになったのを覚えている。



それからしばらく文通やメールのやりとりを続けていたが、高校生になり連絡頻度がどんどん減っていった。

ナチュラルで清楚だった彼女はみるみる内にギャル化し、送られてくるプリクラはもはや原型を留めていなかった。


いつしか

「日サロに通ってチョーー日焼けしてるよんっ☆」

など、ギャル文字全開の手紙が読めるようになり、新しい世界を見せてくれていて楽しかった。


それからどちらともなく10年くらい連絡を取っていなかったある日。

20代後半頃付き合うことになった彼氏が東京の人で、聞き覚えのある住所に住んでいた。

なんと、彼女と同じ市内どころか、同じ中学校区内だったのだ。


連絡先は消しておらず、久しぶりにコンタクトを取ると彼女も覚えてくれていて、なんとその彼氏と三人で会うというとんでもない再会を果たしたのだった。


最後プリクラで見た彼女はガングロギャルだったが、初めて会った時のように清楚な見た目に戻っていた。

遠距離恋愛をしていて、最低でも1ヶ月に1度は東京を訪れていたので、何度か二人で会ったりもした。

当時の思い出話に華が咲き、尽きることのない会話を楽しんだ。

昔仲の良かった同級生に再会している感覚に近い。


私がロンドンに来た頃に彼女は結婚し、今でもSNSでつながっている。

連絡を取ることはほとんどないが、メッセージを送ればすぐに返ってくるような距離の近さを感じている。



もう一人の直接会ったAは、もう奇跡とか運命としか言いようがないほどの強烈な縁。


Aは、私が小学生新聞を見て初めて手紙を送った文通相手。

はるか遠い北海道の子で、小学校のクラブでアイスホッケー部があることに衝撃を受けたのを覚えている。


Aと私は、これといった同じ趣味があるわけでもなく、プリクラを送り合ったこともなかった。

けれどなんとなく気が合い、一番長い期間やり取りが続いた。

彼女の書く等身大の、飾らない手紙が大好きだった。

当時彼女は「ジャーナリストになりたい」と、熱い夢を語ってくれた。



高校時代は手紙ではなくメールでのやり取りに変わり、自然と頻度も減った。

「◯◯大学に合格したよ!」

と、日本人なら誰もが知っている名門大学に進学すると知り、嗚呼遂に彼女の努力が実ったのだと、とても嬉しくなった。

それを最後に連絡が途絶え、私たちはそれぞれの人生を歩む。


それから7~8年が経ち、私は地元で社会人生活を送っていた。

卒業後は県外に出ると決めていたが、高校の時も短大の時も、私が家を離れようとするとタイミングを見計らったように家族の誰かが体調を崩し、叶わなかった。

しかし、確実に社会人になってからの方が人生を楽しめるようになった。

自分で稼いだお金で自由に好きなことが出来るなんて、最高としか言いようがない。



そんなある日のこと。

ふと、本当にふと突然、Aのフルネームが頭をよぎった。


私は完全に直感型の人間で、理由もなく音楽が脳内で鳴り止まなくなったり、ふと誰かや何かを思い出すと、再びつながることが多い。


その時も、例えば手紙やメールの整理をしていて名前を見たわけでもなんでもなく、本当にふと、Aの名前が降ってきたのである。


当時はFaceBookが流行していて、私も使っていた。

そこで、はっきり覚えていたAのフルネームを検索してみた。

すると、本人だと思われるアカウントを見つけた。


名前➔一致
出身地:北海道◯◯市➔一致
出身大学:◯◯大学➔一致

ここまでの情報で、彼女本人だろうと思った。



しかし、私を惑わせた一行はこちら。



現住所
徳島県



これは、ちょっと理解に苦しむ情報だ。

彼女が東京の大学を卒業してから、現在何をしているのかわからない。

でもきっと、大都市のどこかで活躍していると信じてやまない。


…のはずが、このコアな四国の、更にコアな徳島が現住所になっている。


私が生まれ育った此処徳島に、彼女が住んでいる…???




いや、まさか。


現住所の表記がなければ絶対に彼女だと確信できたのに、これだけがまったくもって意味不明だ。



この謎を解明すべく、私は思い切ってFaceBookでメッセージを送ってみることにした。

すると彼女は、早々に返信をくれた。



彼女はまさにあの、小学4年生の時から文通をしていたA本人だった。

長らく音沙汰なかったが、彼女も私を覚えてくれていた。

彼女もかなり驚いていた。


本人とわかったところで早速、メインミステリーの現住所について尋ねた。



彼女は大学卒業後、当時私に熱く語ってくれていたジャーナリストになる夢を叶えていたのだ。

しかも彼女が入社したのはなんと、私たちが知り合うきっかけになったあの小学生新聞の会社…!

入社後しばらくは地方で経験を積むのがスタンダードで、二箇所目の赴任先がここ徳島だったと。

しかも、ほんのつい最近徳島に引っ越してきたばかりだと言う。



私は言葉を失った。

こんなこと、ドラマか映画以外ありえないでしょ?

知ってる?ここ、現実世界だよ???

ねぇ、日本全国47都道府県もあるのよ?

47分の1の確率で徳島を引き当てるってなかなかのもんよ?

しかも、引っ越しして間もないってどういうこと?

そんなピンポイントのタイミングで、Aの名前が私に降ってきたの??


普通の日常に突然降ってきた驚愕レベルの情報と量に、スマホを握りしめたまま私は圧倒された。

どこからどうツッコんでいいかわからない。


頭の整理がつかないまま、私は提案した。



「とにかく会おう!!」




お互いに顔を知らないまま、かつての文通相手に会うことになった。

日々の通勤で見慣れた徳島駅前で、見慣れないAがやってきた。


ごく普通の現実が、私たちの周りだけ一瞬ぱちんと音を立てて、非現実の世界に切り替わったのだ。

もうとんでもなく過去に遡り、高速タイムマシーンにでも乗っているような感覚だった。


だって、実生活でも小学生から縁がつながっていることってレア。

ましてや、文通相手なわけで。



文通相手が徳島に住むことになり、私にとっては地元で会っているという、とんでもない初対面。

こんなに時が経ち初めて会っているのに、小学生だった私が悩みを打ち明けたりお互いの誕生日を祝っていた相手。

こんな感覚は、人生長く生きたとしてもなかなか味わえないと思う。


お互い徳島に住んでいるのでいつでも会えることになった。

徳島について色々紹介したり、母とも初対面を遂げた。

長年うちのポストに手紙が届いていたので、母もAの名前を覚えていて感動したものだ。


赴任期間が終わり彼女が徳島を去った後も、県外へ遊びに行ったり家に泊まらせてもらったり、付き合いは続いた。

すっかり徳島ファンになった彼女は、年に一度は徳島を訪れていた。

当たり前のことだが、実際に会うようになってからグッと距離が縮まった。



北海道の、彼女が生まれ育った町も訪れた。

彼女のご両親があたたかく迎えてくれて、数日間お世話になった。

ごはんと一緒に添えられる豪華すぎる量のいくら、初めて食べるジンギスカン、新鮮すぎる丸ごとのカニや海鮮丼。

毎日贅沢な食事を振る舞っていただき、みんなで昭和新山を観光したりした。

なんとそこで、彼女のお父さんのルーツが徳島にあることが発覚し、彼は昔親戚が話していた阿波弁を覚えており流暢なそれを披露してくれたのだ。

ここでも、彼女が徳島に強い縁があることが伺えた。


何より、小学生の私が毎回封筒に書いていた住所へ、大人になった私が足を運んでいること。

なんとも言えない感慨深さだった。



ジャーナリストになった彼女の取材を受け、私たちの記事が今現在の小学生新聞に掲載された。

私は、長年大切に保管していた彼女からの手紙を持参した。

「わー!!このレターセット覚えてる!」
「私、こんなこと書いてる恥ずかしい!!」


小学生だった彼女の字で、

”将来の夢は、ジャーナリストになること”


そう、はっきり書かれていた。


当時からずっと願っていた夢を叶えた彼女と一緒にそれを読み、私たちの思い出を共有している。

涙が出そうになるくらい、愛おしい瞬間だった。



後に彼女は子どもを授かり、なんと私は文通相手の子どもにまで会うことが出来た。

こんなに嬉しいことはない。

彼女が生んだ赤ちゃんを抱いた時の感動は、今でも鮮明に覚えている。



それから約2年が経ち、私はギリシャを経てイギリス生活が始まり、一時帰国をしていた時のこと。

彼女から衝撃の知らせが入った。

「徳島に移住するよ!!」



バリバリ仕事をしていた彼女は、完全リモートのポジションを得た。

そのタイミングでなんと、徳島に移住を決めたのだ。


私たちが初対面したあの赴任期間で、徳島に恋におちた彼女。

それから栄転を繰り返し大都市での暮らしをしていたが、いつか徳島に住みたいと思うようになったらしい。

決して便利とは言いづらいが、自然の豊かさ美しさ、人の優しさ、食べ物の美味しさ(特に海鮮と野菜)に惚れ込んでくれた。


「いつか」って、「今」だと気付いたらしい。

私はとても嬉しくて、もちろん引っ越しも手伝いに行った。



引っ越しに伴い、2歳になろうとする息子くんを保育園に預けようとしたところ、はじめの2週間程度はならし保育の為数時間しか預かってもらえない。

しかし彼女は責任あるポジション、こなさなければならない仕事がたくさんある。

そこで私が、息子くんのベビーシッターを頼まれたのだった。


保育を学んだものの、実務経験はないのでとても不安だった。

午前中に保育園へ迎えに行き、彼女の家に連れて帰りごはんを食べさせたり遊んだり寝かしつけたり、全部一人でこなさなければならない。

もしも途中で何かアクシデントがあったりしたら、責任を取るにはあまりにも重すぎる命の重さである。

それは子育て経験のない私にとって、なかなかのハードルの高さだった。


しかし、この一時帰国のタイミングでこの話をもらったことに、またまた強い縁を感じていた。

やはり小学4年生のあの時から、私とAの間にはなにかがあるのだ。


友だちの子どもなので、どんなことでも聞きやすいし言いやすいのは間違いない。

東京で贔屓にしていたベビーシッターの会社は地方にはなく、そもそも田舎ではベビーシッターが主流ではない為探すのに苦戦していた。



そんな友人を放っておけるわけがない。

あんなかわいい息子くんのためならば。

私は意を決して、その重大な任務を引き受けたのだった。


息子くんの聞き分けとノリが最高によかったおかげで、毎日楽しく過ごせた上に、愛着もめちゃくちゃに湧いた。



彼を寝かしつけている間、静かな空間でよく思った、

「元文通相手の子どものベビーシッターをしてるなんて、奇跡だな。」



全国各地の文通していた人たちを全員かき集めても、きっと私たちのような関係性は他に見つかりはしないだろう。

仮に”文通で出会った奇跡のご縁コンテスト”なんてものがあれば、私たちは文句なしのグランプリに輝き、手紙型のトロフィーなんかももらえたりするだろう。

これはもう、確信している。



「こんなことってあるんだ…」

人生を歩んでいれば、そんな瞬間に出くわしたりする。

このストーリーがすごいのは、すべて現実世界で起こったということ、伏線回収とも思えるような未来があったことだ。



あのシッター期間に息子くんとすっかり仲良くなり、今や私をニックネームでニコニコ呼んでくれる。

子ども好きなうちの母も何度も一緒に過ごし、ベタベタの懐きっぷりにはAも私もたまげた。

まだ孫がおらず、息子を持ったことのない母にとって、彼がかわいくて仕方がないようで本物の孫のように接している。

息子くんに「ばあば」と呼ばれ、イベント事にはニコニコしながらプレゼントを選び、永遠に顔がほころんでいる。


かつての文通相手が、我が母にまで笑顔を運んでくれたのだ。



私がロンドンに戻って来てからもAは母といい関係が続いており、どうしても彼女が泊まりで出張がある時は、うちにお泊りしにきてくれる。

息子くんはうちで泣いたことがなく、ずっとリラックスして笑顔で過ごしているようだ。

すっかり、徳島のばあばである。


自分の命より大切な子どもを泊まりで人に預ける、というのは、強固な信頼関係がないと出来るわけがない。

彼女は私と、私の母に信頼をおいてくれたのだ。

心から有り難いと思う。


北海道にいるAのお母さんから、毎回心のこもったお礼のメッセージが届き、

「遠くに住んでいる近い親戚のように思っています」

と言ってくれる。

遠く離れた北海道からはなかなか頻繁に孫の顔を見に来られないので、少しでも安心してもらえるようにといつも願っている。



文通から始まった人間関係に、こんなミラクル級の未来が待っていた。


結局、出会う方法ってものはなんでもいいし、きっかけに過ぎないわけで。

そして、強い縁がある者同士はどんな道を選んでも必ず引き合うようになっている。



「こんなことが実際あったんだよ、すごいよね不思議だよね!」

って誰かに話したくなるような絆があるって、私は本当に幸せ者だ。


Aとはきっと、おばあちゃんになるまで友人でいるだろう。

そして、大きくなる息子くんの成長を見届けるんだ。




Aに手紙を送る選択をした、小学4年生のLittle Natsumiに、「ありがとう!」と大声で叫び、抱きしめたい。

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