共感はしても、感情移入はしない
こんばんは、ナツミです。
感情移入しすぎると、冷静に判断ができなくなる
先日、知人とSNSでの炎上についての話になりました。
・最近のSNSでのバッシングはヒドイ
・とはいえバッシングする人が、しない人の数を上回っているわけではなくて、ただ一部の人が悪目立ちしてしまうのではないか
・ひとつひとつの鋭さよりもその数に、つまり内容より量にやられるらしい
・打たれ強いイメージだった著名人の方が、人が変わってしまうくらいの威力らしい
まとめるとこういう感じで、SNSはこわいんだな〜と思って、そのときは終わったのですが・・
あとから、ひとりになって、ふと考えました。
確かにSNSやバッシングは我が身に降りかかってくることを考えるとコワイと思うのですが、まだ降りかかってきていません。
わたしが身を置くSNSでの環境は、フォローしている方もフォローしてくれる方も、あたたかい人ばかりです。
SNSでヒドイことを言われたり、具体的にイヤな思いをしたことはありません。
あれ? 全然こわくないぞ・・・?
そして気づいたんです。
自分自身が、その著名人に感情移入しすぎて、冷静に判断できなくなっていたことに。
共感力と感情移入を間違えない
わたしは、人生は「人と生きる」という意味だと思っています。
社会生活を捨てて山奥にでも住まない限り、人との繋がりは生まれてきます。
人とコミュニケーションをとるのに最近重要視されているスキルのひとつに【共感力】があると思います。
【共感】
他人の意見や感情などにそのとおりだと感じること。 他人の意見や感情などにそのとおりだと感じること。また、その気持ち。
共感力の高い人は、相手の気持ちを汲み取り寄り添える人なので、人とのコミュニケーションが上手に取りやすいと言われています。
一方で、感情移入という言葉もありますが、これは共感とは少し違います。
【感情移入】
自分の感情や精神を他の人や自然、芸術作品などに投射することで、それらと自分との融合を感じる意識作用。
(どちらもgoo辞典より)
つまり、共感は自分の立場から客観的に他人を見て相手の気持ちを理解し寄り添うのですが、感情移入はまるで相手になったかのような視点で見て相手の感じた感情を自分も感じることを指します。
両者は、どこから見て感じるかという「視点」が違うのですね。
でも、よく考えてみると、自分は相手になることはできません。
自分と相手は、過去の経験も、性格も、環境も違うので、相手に今起きていることが自分にも起こるとは限らないですし、起こったからと言って同じ状況になるとは言えないのです。
つまり、わたしはどうがんばっても冒頭の著名人の方にはなれないし、そう考えると同じような状況になることは考えづらい。
それなのに、SNSはコワイものだと感じているのは、まさに感情移入していて(自分を相手と混同している)、客観性に欠けていると感じたのです。
自分と他人を切り分けて考える
共感力が高い人は、エンパシーと言って相手の感情に影響を受けすぎることがあると言います。
友達が悲しんでいたら、自分も同じように深刻に悲しんでしまう。
近しい人が悩んでいたら、自分のことのように悩んでしまう。
誰かに起きた不幸なことが、自分にも降りかかってくるのではないかと思ってしまう。
そんなふうに誰かと自分を重ねたり、感情を共にすることができるのは素晴らしいことだと思うのですが、もしかすると共感ではなくて感情移入に近いのかもしれないと思うことがあります。
友達と同じくらい自分が沈んでしまうと、友達を引き揚げてあげることはできません。
だから、客観性を保つことはとても大切だと思うのです。
そのためには、自分と他人は別の存在であると、切り分けて考えることが重要です。
人と接していると、頭ではわかってはいても、ついそのことを忘れて、感情移入してしまいがちです。
自分を保つために、共感はしても感情移入はできるだけしない。
他人に起こることが自分に起こるとは限らない。
他人の感情を自分も一緒に抱えなくても大丈夫。
情報が多い現代のようなときこそ、大事なことだと思います。
#ナツミnote 【Day200】
自分の声に耳を傾けることで、自分を大切にしよう。日々の気づきを拾って、昨日より前に進もう。毎日を少しだけ輝かせよう。
そんなnoteを、ほぼ隔日で更新しています。