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四月になれば彼女は

 「四月になれば彼女は」を、レイトショーで鑑賞した。サイモン&ガーファンクルの曲「April Come She Will」や同名別作品の舞台は馴染みがあるが、この映画の原作は未読。

 普段恋愛モノはあまり好んで観ない。恋愛は当人同士が好きにすればよく、わたしがそれを眺めるのも覗き込むようで腰がひける。明らかに恋愛を描いただろう予告編に、実は少しだけ怯んでいた。
 だが、喪失と惰性によるすれ違いから関係性を取り戻すさま、そこにある克己を描くストーリーはたしかにしっかりとした味わいがあった。演技巧者の佐藤健・長澤まさみに、森七菜の透明感を帯びた魅力が光る。

 ひとりの孤独よりも、ふたりでいるのに感じる孤独のほうがつらい。孤独の色とその濃さが違う。ひたひたした孤独を抱えながら、ともに生きるってなんだろう?
 数年間考えてきたことと、ちょっとシンクロしたような気がする。

 視点のズレを丹念に見せており丁寧だ。リフレインのたびに、すれ違うさまが嫌らしくなく提示される。メタファーとしての小道具も切ない。
 そしてこの監督ならではの青と光の表現が、冒頭からずっと美しい。映し、写し出される終わりゆくもの。切り取られては残る記憶、確かに存在したものによって変わりゆくこと。すべてはうつろう、万物流転の法則のもとに。四月になるのが嫌な「弥生」は3月の旧暦、桜が咲き誇る4月の「春」、そして春から初夏へと向かう中で香る「藤」は5月の花──これもまた、うつろいの隠喩だろうか。
 だが、変わりゆく瞬間を怖れず手を伸ばし続けるのであれば、人はともに歩いていけるのかもしれない。

 山田監督とは縁のある藤井風により作られたテーマソング「満ちてゆく」は、教会で作られたゴスペルのような壮大な愛の歌。だが確かにこのストーリーにしっくりと寄り添うラブソングだった。


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なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」