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the other point of view 四月になれば彼女は【ネタバレあり】

 どうしても行きたかったところに行かなくては、という呟き、Twitter(X)に現アカウントを作ってから何度となく見てきた。美しい写真の数々も覚えている。
 目の覚めるような青と砂が眩しいビーチ、美味しそうなカクテル、色とりどりのフルーツ。空港のワンシーン、土産物屋に並ぶ品々の鮮やかさ。
 それらがアップされたら羨んだり妬む人もいるのかもしれないが、わたしの立っている場所からは違うものが見える。決まって少し切なくなる。ご無事で、と密やかに祈っている。
 何かを知った分だけ、何かが欠けたような気がする。欠けたままで、何人を見送っただろうか。ひとりの「わたし」として、そしてDCISとはいえ「がんサバイバー」で「患者家族」のわたしとして。

 だから春が旅に出た理由は、もうすっかり予想ができてしまっていた。原作を読まずにいてもなお。
 美しい景色の中で、いつか選べなかった道と想いを辿る。書籍ではわからない空気を吸い込んで、風にあたり、地面を踏みしめる。湖、石畳、機械時計。誰かの写真ではなく自らの目でとらえて、これだと思ったものを選んでは写す。
 写すことは、遺すことだ。
 
 

 弥生と俊の会話は、会話のように見えて芯をとらえていない。あらぬところに投げられたボールのようだ。そしてスッと虚空に消えてゆく。
 ・・・・・・かつてはやりとりが成立していたのに。誕生日を祝うためのレストラン選びでの言葉も、一方的で惰性といっていい。「いつものところがお互いにすきだから」なのか「またあの店でいいか」なのか伝わらない。
 割れたグラスは関係性のメタファー。弥生が壊れたことに対して動揺しているにもかかわらず、俊は何事もなかったかのように拾い集めて捨てる。
 責めることなく片付けをしてくれているのだから、彼にもやさしさがあるのだ。ただ、弥生の表情には気付くこともない。いつか壊れるもの、壊れるのが怖い弥生、かたちがあるもの、あるはずなのにないようなもの。
 ふたりとも決して互いに踏み込まないところだけは何故か似ている。それが「愛することをサボった」という証だろう。
 
 

 弥生の行動を「わたしもそうする」とは思えない。出奔も、向かった先も。
 だが、登場人物の心の動きを全部わかろうとしなくてもいいはずだ。自分なら同じ行動をするかどうかなど、元々違う人間なのだから違って当然の話だ。現実もそうであるのと同じように、先々の自分が変わらないとも限らないように。
 また精神科医と患者の恋愛にしても現実には職業上タブーにあたるが(藤代医師がもう診られないと弥生に告げるのもそのためだろう)、同僚に理解があるのもこれはあくまで物語上のことで、それほど惹かれあっていたのに・・・・・・という表現かもしれない。
 ただ登場する人たちの中に少しずつ「いつかの」「どこかの」「あの時の」自分が見えたなら、それは映画体験としてしあわせなことと思う。
 
 あなたが彼に送った手紙の存在を知っている。あなたに会いに来た、とはそういうことだ。想いの込められた私信を共有したというのは、ちょっと考えてみても言えない。
 だがその時には春と弥生には関係性が築かれていたし、春は予め感づいていた。託す気持ちもあったのかもしれない。未来には自分がもういないから。ホスピスという場所は、台詞でも語られていたようにそういう性質を持つ。
 あのふたりにはそれでよかった、ということなのだろう。春の生きた記憶は、俊のみならず弥生にも息づく。手紙の文字ではなく、声や笑顔やピアノの音も。
 
 

 消えてゆくものが共有の記憶として遺される。光の反射のようにリフレインする。慣れきった関係の中で見失った幾つもの齟齬を取り戻しながら、ふたりは生きる。
 ふたりの中で、春は生きる。たくさんの文字や写真だけではなく、実体の残像として。声や、笑顔の中の揺らぎ。心のファインダーで写しとったものは、決して写らないはずのものだ。
 それは、春自身が写したかったものと似ている。一瞬を永遠にしようという試みが、写真であり愛なのかもしれない。
 

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なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」