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ストラヴィンスキーが語る、《プルチネルラ》

Note上で展開する、架空のラジオ番組《クラシック・エトセトラ》。
この番組では、毎回異なる音楽家がパーソナリティーを務め、
自身のお気に入りの曲と、その曲にまつわるエピソードを語っていきます。
今日の担当は、作曲家のイゴール・ストラヴィンスキーさんです。
(お話は史実に基づき構成しています。)


こんにちは、イゴール・ストラヴィンスキーです。
仕事で各地を行き来していますが、
今はスイスに拠点を構えています。

《プルチネルラ》作曲の頃、1920年代のイゴール・ストラヴィンスキー(1882−1971)

今日は最近、パブロ・ピカソたちと手掛けた
バレエ音楽《プルチネルラ》を紹介したいと思います。

初めて《プルチネルラ》の話を聞いたのは、
この作品の初演を指揮したエルネスト・アンセルメからだったんだ。
ディアギレフが、
18世紀のイタリアの作曲家ペルゴレージの作品をもとに
新作を作りたいと言ってるってね。

バレエ・リュスの主宰者で、ロシア人興行主のセルゲイ・ディアギレフ(1872−1929)。
彼とストラヴィンスキーは《火の鳥》(1910)、《ペトルーシュカ》(1911)、《春の祭典》(1913)など、
1910年代初頭にパリで次々とセンセーショナルな作品を発表し、
バレエ・リュスの一大旋風を巻き起こした。


ベル・エポック(美しき時代 Belle Époque)から、
レ・ザネ・フォル(狂乱の時代 Les Années Folles)へ。

パリの時代の変遷の重要なキーパーソンを担ったロシア人興行主、
セルゲイ・ディアギレフとは、もう何度も仕事をしたし、
スイスで知り合った若いアンセルメをディアギレフに紹介したのは僕だから、
みんな仲間なんだけれどね。

でも僕は最初、ペルゴレージの名前すら知らなかったから、
正直「どうしたものか」と思ったんだ。

けど、ディアギレフが
ナポリとロンドンの図書館で自分で見つけてきたっていう楽譜を見たら、
驚くほどに面白くて・・・
新しいアイディアがどんどん浮かんできたんだよね。

そう、《プルチネルラ》は、
僕にとっての古の発見であり、未来の僕自身の音楽への啓示。
僕がこれから夢中になる古の世界への初恋で、
過去と未来、双方への鏡のような眼差しを得た瞬間だったと思う。

図書館で楽譜を探すディアギレフのイメージ。

それから、僕にとっての、
この作品でのもう一つの大きな喜びは、
パブロ・ピカソが舞台美術と衣装を手がけたこと。

1912年のパブロ・ピカソ(1881−1973)


バレエ・リュスの『パレード』高層ビルと大通りを表現したパブロ・ピカソの衣装デザイン。
1917年5月18日パリ・シャトレ座


ピカソ
と初めて会ったのは、《プルチネルラ》に取り組む3年ほど前、
イタリアのローマだった。
二人とも、バレエ・リュスの公演でローマ滞在中のディアギレフに呼ばれてね。
そのあと、バレエ・リュス一行とそのままナポリへ向かったんだけれど、
僕もピカソも暇だったから、数日間二人でナポリの街をぶらぶら散歩して、
小さな店や古美術商を覗いては色々話し込んだり、
あっ、二人して古い水族館に魅了されて、何時間も滞在したこともあったな。

1860年に書かれたモーリス・サンドによるプルチネルラ


とにかく、《プルチネルラ》のために、
僕はパリとスイスを何度も往復したよ。

舞台美術と衣装を担当したピカソ、
振り付けを手がけたマシーン、
それから、ディアギレフと何度も何度も打ち合わせを重ねたんだ。

特に、ピカソと僕のやりたかったこと。
衣装とオーケストレーションは
ディアギレフが当初やりたかったこととは、
ずいぶん違っていたからね。
話し合いっていうより、
大喧嘩から騒動になりかけたこともあったほどだよ。
でも最終的に、
そんな全員の苦労が実って
あらゆる要素において完璧なレベルの作品になったんだ。


特に、ピカソのすべてが、僕に大きな影響をもたらしてくれた。
彼の色彩、造形術、そして驚くべき演劇感覚とその人間性。
なにが一番かと言うのが難しいほどに、
彼の持っている、その全てに魅了された。

僕にとっても、そしてピカソにとっても、
芸術家としての転換期を迎えたんじゃないかって思っている特別な作品だよ。


それでは、《プルチネルラ》を組曲版でお聴きください。
フランソワ・ルルー指揮、
hr交響楽団(フランクフルト放送交響楽団)の演奏です。


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夏目ムル
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