見出し画像

マルコポーロ荘

私であることもすっかり忘れて
真っ黒な空間をプカプカと浮いていた。
何度も何度もそのチャイムは鳴り続け、
とうとう翔(かける)は目が覚めてしまった。

マルコポーロ荘は壁が薄いのだ。
そんなにならすと隣の八さんからまた苦情が来る。
八さんは翔の部屋の隣に住んでいる白い猫だ。
以前、翔がここに引っ越してくる前に住んでいたタンバリンの男は
帰って来ても、出かける時も、鍵をかけるときも、
とにかくタンバリンを鳴らしていた。
更に昼間はタンバリンの道を究めるため、猛烈な練習を繰り返し、お昼寝の邪魔をされた八さんは、上質な夢を見ることが出来なくなってしまった。
そしてついに八さんはタンバリンが鳴っていないときでも、タンバリンの音が聞こえるようになり、マルコポーロ壮のあらゆる場所で爪研ぎをするようになった。
「シャァァァーー!!」と言っては辺りに殺気をふりまき、
常にしっぽはパアーっと膨らみ、背中にはファサァーっと逆毛が立っていた。
怒った八さんはタンバリンの男の手と顔を引っかいた。
タンバリンの男は引っかかれた後
タンバリンアレルギーとなり、二度とタンバリンを触れない身体になってしまった。
「タンバリンの弾けない私はもはや私では無い」
と言って、その後行方をくらませてしまったらしい。
八さんを怒らせてはいけないのだ。
それが平和にマルコポーロ荘で暮らしていくために必要で、かつ大切な事だった。

翔は重い瞼をやっとの思いで半分開け、
ベッドサイドの目覚まし時計を見た。朝の6時だった。
まだ夢をみている身体を起こし覗き穴を覗いてみたが、
そこに人の気配はなく誰も居なかった。
こんな早い時間だと
ゴミを出しに外に出て
鍵を忘れてしまった人に違いない。
大家のいないマルコポーロ荘では、
どの部屋のドアでも開けることができる鍵を住人達は皆持っていた。

マルコポーロ荘は木造立ての古いアパートなのだが、
玄関のドアだけはなぜか自動で鍵がかかるようになっている。

理由は以前ドアを閉め忘れた住人がいたらしく、
帰ってくると狐の親子が部屋で死んでいた。
狐の親子はその住人が買っておいた鯛焼きをのどに詰まらせて亡くなった。
町内で狐はとても数の少ない貴重な存在として、まだ誰も姿を見たことが無かった。
数の少ない狐は更に減ってしまい、
狐を守ろうの会の人たちは、
各部屋の玄関に自動ロックをつけるように義務付けたのだ。
町の人達は何度もこのアパートの屋根で遊ぶ狐の親子の幽霊を見ており、
マルコポーロ荘は
「マルコポーロの無念、狐の祟り荘」と影で呼ばれていた。
翔はまだ一度も狐の親子の幽霊を見たことは無かった。
もしかしたらチャイムは狐の親子がならしたのかもしれない。
そう思うと翔はなんだか楽しくなってきた。

チャイムに起こされ、朝早く目覚めてしまったので、
翔は珈琲を淹れることにした。
珈琲のお湯を沸かす間、翔は窓からまだ薄暗い空を眺めていた。

次はドアをノックする音が聞こえてくる。

コン、コン

気のせいかと思っていると
ドンドンと大きな音でノックする。

まるで誰かが思いっきりドアにぶつかってきたような大きな音だった。

翔は火を止め
ゆっくりと玄関に向かった
そうっとのぞき穴から様子をうかがう。

やはり外には誰も居ないようだった。

木造アパートのマルコポーロ荘はよく音が響く。
もしかしたら上の階の糸子さんがミシンを使っているのかもしれない。

糸子さんは口から糸を吐き紡ぎ、その糸で色んなものを創っている。
以前、糸子さんからハンカチをもらったことがある。
その日から翔の部屋にはイカが泳ぐようになった。
イカは部屋をスーイ、スーイと泳ぎ
目が見えないのか時々翔とぶつかり落ちるときがあった。
その後イカは何事も無く泳ぎ始めるのだけど
床がイカの水分でぬれてしまうので、
翔はその度にいつもぞうきんで床をふかなければならなかった。
翔は根っからのぐーたらなので、出来るだけ作業を増やしたくなかった。
なるべくイカとぶつからないように
部屋を歩くときには細心の注意をはらった。

2日経つとイカは玄関先で干からびて干しイカになっていた。
翔はそのイカを火であぶって食べた。
2日1度の食事だ。
それ以来、買い物に出かけなくても良くなった。
もともと食べ物に興味が無かった翔はこの2日に1度の食事で十分満足した。

ある時、何時もは1匹のイカが2匹になっていた。
翔は一人では食べきれないので、
イカのお礼もかねて、花屋で一番香りの良い薄いピンクのバラを買い、
干しイカと一緒に糸子さんを訪ねた。

糸子さんの玄関のチャイムをならすと
1回目2回目では何の反応も無く、3回目のチャイムで
ドンッと大きな音がしたあと糸子さんが出てきた。

「糸子さん、こんにちは。
この間ハンカチを頂いた日から
毎日イカが部屋に泳ぎに来るようになりました。
おかげであまり買い物に行かなくて良くなったので、これ、そのお礼です。どうぞ。」
といって干しイカとバラの花束を差し出した。

糸子さんはとても色が白く、水色の血管まで透けて見える。
手には無数の血管が浮かび上がっていた。

「翔さん、こんにちは。まあ。これはこれは。どうもどうも。
しかしながら私は糸は吐き出せても物を食べることが出来ませんの。
しかしながらお花は好きなのでいただきます。」
そう言うと、スーとバラの匂いを嗅いだ。
糸子さんに嗅がれたバラはみるみる枯れていった。
そのあと、コホンッコホンッと小さな咳をして
「ちょっと、ごめんなさい・・・コホンッ」
と言って奥の部屋に行くと
ゲホッゲホッ!オエッエエエ!!!
と聞こえた。
しばらくして息を整えた糸子さんが巾着袋を持って出てきた。
「ごめんなさいね。久しぶりにお花の匂いを嗅いだものだから
毛糸の玉が出てきたの。
あぁ、お花枯れちゃったわね。枯れてもお花は綺麗ね。
大事に部屋に飾るわね。
これ、良かったら使って。」

今度は巾着を頂いた。

翔はこれもまたなかなか使う気にならず、
ハンカチの横に置いた。

次の日の朝、巾着からキノコが生えていた。
まるまるとしたキノコはとても美味しそうだったので、
干しイカと一緒に炒めて塩を振って食べた。

これは美味しいぞ!
翔はパクパク食べた。

それから何がおかしいのか笑いが止まらなくなり、
わはははhと一晩中笑っていた。
笑いすぎて腹がよじれた後
翔は部屋を泳いでいた。

スーイスーイ

辺りがだんだん黒くなり、
墨の中で泳いでいるかのようだったのだ。
そしてただまっ暗な空間に漂い
黒の呼吸をしていた。

黒を吸い込み
黒を吐いていく

その内、翔の全てが黒になり
絶対的な安心感に包まれた。

まず足が消え、ふくらはぎ、ふともも、手、うで、顔、頭、最後に心臓が消えていった。

ただ黒だけが在る世界になった。

そして翔はいつの間にか寝てしまっていたようで
今、チャイムで起こされたというわけだ。

チャイムは鳴るばかりで、誰もいない。
また部屋に戻りお湯を沸かし
珈琲を煎れる

部屋に珈琲の香りが広がっていく

コツコツ

今度は玄関の方から
何かを打ち付け続ける音が聞こえてきた。

音は抑揚をつけているように
大きくなったり
小さくなったりしていた。

kは珈琲を飲みながらその音を静かに聞いていた。

誰も居ないはずなのに
誰かがいる。
それは不思議と全くこわくなかった。

珈琲を飲み終わると
翔はまた玄関に向かった。

チェーンはかけたままドアを開けてみたが
誰もいない。
今度はチェーンをはずし大きくドアを開け、
しばらくの間、開けっ放しにしておくことにした。

ふと足下を見ると何やら黒いシミのような物が出来ていた。

「雨?」

翔はつぶやいた。

その黒い影はするすると動き
翔の家の中へ入って来た。

そしてピッタリと翔の足の裏から壁に張り付き
長い影となった。

長い間自分には影がなかったのだと
この時、初めて翔は気がついた。

「どこに行っていたんだい?」

翔は影に話しかけた

「貴方が影の間、私が代わりにマルコポーロ荘の外に出ていたんだ。」

翔は何日ぶりに目覚めたのだろうかと
あたりを見渡した。
埃をかぶった時計の針は1:45で止まっていた。

「貴方は長いこと眠っていたから
私もその間は自由に旅をしていたんだ。
でもそんなに楽しいものではなかったよ。
遠くの世界もここもたいして変わらない。
むしろ住み慣れた日常が私には一番だと気がついたよ。
それでも貴方が遠くにもっと遠くにそれは在ると言うから
私は仕方なく旅を続けていたんだ。」

「寝ている私は会話をしていたの?」

「私は貴方だし、貴方は私だから
わかるのさ。
どんどん消えていく今と
変わらない今が続いているね。
貴方が産まれてから、ずっと私は貴方を見てきたけれど
今は一番おだやかで、そしてとてもかなしいんだ。
意志を心に抱きしめて、
考えることが出来なくなり自然に流れ流されてきた、
このささやかな景色がたまらなく好きなんだ。」

「それは嬉しいと言うこと?」

「そうかもしれない。
そうだ。貴方に砂漠の青い花を連れて帰って来たよ。
高さ4039メートルの砂漠の山に咲いていた花だよ。
砂漠の山は早く歩かないと、砂漠の中にいる蠍に見つかってしまうんだ。
見つかると砂漠の中に引きずりこまれて砂漠の世界から戻れなくなってしまうからね。
北極星の示す道を頼りに頂上を、青い花を目指して必死に登ったよ。
おかげで右の膝を痛めてしまったけどね。」

「北極星?」

「北極星はどんな時でも道を示し、青く照らしているんだ。
だから忘れないようにしているんだ。
見上げた先にはいつも北極星が在るということを。
私達は北極星と共に在るんだよ。」

翔は青い花を受け取ると、
ぽっかりと穴があいていた心の真ん中にさした。
花は少しひんやりと冷たかった。
心にさした青い花はぐんぐんと根が伸びていき
みるみる間に翔の心に広がり沢山の青い花を咲かせていった。

「この青い花は冬の匂いがするね。」
「そうだよ。だってさっきまで凍っていたんだから。
その花の周りだけ雪が積もっていたんだ。
砂漠にポツンと咲いていた花だけど、
どうやら私の旅の目的はその花を探す事だったみたいだ。
貴方が何度も見つけてと叫んだ青い花だよ。
その花は2021までは咲き続けるはずだ。」
そう言って影は伸びたり縮んだりしてみせた。

影と話していると隣の部屋に住む八さんが帰ってきた。
八さんは白い猫。そしてとても神経質だ。
うるさくしていると壁を叩かれる。

今日の八さんは薄いピンク色のセーターを着ていて、ごきげんだった。
しっぽがピンとたっている。

「翔さん、こんにちは。今日は寒いですね。
まぁ!影が帰ってきたんですか!よかったですね!」

そう言うと、さささーっと部屋に戻っていった。
八さんはとても寒がりなのだ。

きっとこの間、糸子さんが吐き出した毛糸で創ったセーターなのだろう。
神経質な八さんは糸子さんと仲良しで、
昼間はいつも糸子さんの部屋でお昼寝をしているようだった。
八さんが通った後はほのかに甘いバラの香りが漂っていた。

「にゃん、にゃん、にゃん」
と隣の部屋から八さんのご機嫌なハミングが聞こえてくると、
影は話すことをやめた。

翔は玄関の扉を閉め、心に鳴り響く青い花の音を聴いていた。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?