私にとっての「文章を書くこと」とその原動力について
2022年の幕開けは、世間的、世界的に見たら決して明るくないのかもしれないけれど、せめて個人単位ではささやかな「おめでとう」を心から言いたい。
明けましておめでとうございます。
すっかりnoteを更新できない日々が続いていて、その間忙殺されるくらい忙しかったのかと言われるとそういうわけでもなく。深夜に差し掛かる時間にnote書きたいなと思うことは何度もあったけれど、行動に移せなかった。私の場合、あのことを書きたいとかこのテーマで書きたいとか、そういうのがあっても頭の中で文章化されているわけではないから、テンポよく書ききれるかは始めてみないと分からない。いつもキーボードに向かって、「では書きましょうか」となって実際に指が動き始めるくらいに頭の中で文章が作られ始めて、指が止まらないこともあればどうにも止まりがちなこともある。
今日は久々に、というより産後で最長くらいの一人の自由時間を過ごしてよいことになったので、いそいそとPCを起動してみた次第。
このキーボードに触れない期間、悶々とすることもイライラすることも、嬉しいことも楽しいこともあったけれど、いい感情はとっとと通り過ぎて忘れていくのに、負のもやもやは得体のしれないままいつまでもとどまり続けているのはなぜなのか。逆だったらいいのに。そういう生き方がしたかった。でも逆だったら私はこんなに文章を書くことにこだわらなかったかもしれないし、打ち出される文字と共に生まれる爽快感を味わうこともなかったかもしれない。
思えば昔から文章を書くことの原動力は正より負、陽より陰の感情だった。小学生の頃の日記ですら、字の勢いがあって何ページも書き連ねていたのは「お母さんが授業参観に遅れてやって来て、授業の最初にあった私のピアノ演奏の見せ場を見逃された! お母さんのバカ!」という内容だった。他の何やら楽しげなことや発見についての記述には「そんなことがあったのね」くらいの気持ちだけど、あの日の日記を読み返すと当時の悔しくて悲しくてやりきれない気持ちが蘇ってくる。たぶんあの日の私を本当に慰められたのはお母さんだけだったのだけど、それは上手に果たされなくて、たまらず日記に叩き付けた感情が紙面でまだくすぶっている。
そう考えると、書くことはカタルシスであっても、書いたそばからしゅわーっと昇華されるものではなくて、心に渦巻くあれこれを一旦紙面(アナログでもデジタルでも)に預けて身軽になっているだけなのかもしれない。いつか、余裕のある大人の私がそれを読んで、昔のもがいている私を慈愛溢れるまなざしでよしよしとしてやっと昇華されるのか。いや今もすでにしっかり大人の年齢なのに、昔の私の感情を追体験して「うんうん、あれはつらかったねぇ」と苦しさを噛みしめているだけなのだから、聖母のような包容力の私が現れることなどなさそうだ。古代エジプトのミイラを作った人々も、後半は今の私のような「まあ無理そうだけど来るべき時にはよろしく」という気持ちでいたのかな。それとも最後まで来世や復活を強く信じていたのか。
最初の一行目を書き始めたとき、まさかミイラに思いを馳せることになるとは思っていなかった。ただ、本当は書きたかったんだけどなかなか書けなかったのよねということを書こうとしただけだったのに。あらかじめ上手に文章を構成して書くことをしない(できない)私としては、こういう行き当たりばったりに頭の中のひきだしを引いて中身を見るのがとても楽しい。今年はこんな時間をたくさん持てたらいいな。願わくば苦しみのミイラが一つでも多く昇華される未来に辿り着けますように。