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ユリウス・カエサルが暗殺された場所 「ポンペイウス劇場」

1200年以上の長い古代ローマの歴史の中で一番有名といっても過言ではないユリウス・カエサル。日本でも、彼がルビコン川を渡る際に言ったといわれる「賽は投げられた」という言葉や、暗殺された際の「ブルータス、お前もか」という言葉はとても有名です。

でも、暗殺された場所を知らない方も多いのでは?

それもそのはず、彼が暗殺されたとされるポンペイウス劇場は、非常にスケールが大きかったにもかかわらず残念ながらほとんど遺跡が残っていません。

カエサルより6歳年上のポンペイウスは、若いころより政治、軍事面で頭角を現します。凱旋式を初めて挙行したのは25歳の時。これは、ローマ史上、最年少記録でした。

ポンペイウス劇場は、ポンペイウスが3度目の凱旋式を挙げた紀元前61年に建設が始まり、2度目の執政官を務めた紀元前55年に出来上がりました。ローマ初の石造りの劇場でした。

それまでローマでは腐敗堕落の元凶となる劇場を石造りで建設することは禁止されており、劇場はすべて暫定的に木製で造られていました。その法律をうまくすり抜けたのがポンペイウス。半円形の観客席を登りきったところに勝利の女神ヴィーナスに捧げる神殿を建設することにより(下の復元図左下部分)劇場ではなく、神殿として建築したのです。

By A derivative work of a 3D model by Lasha Tskhondia - L.VII.C., CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=21850600

コロッセオは存在しなかった当時としては、ずば抜けた大きさの劇場。約2万人も収容できました。舞台には音響効果のために屋根が設けられ、ポンペイウスが征服した14の国を象徴する彫像で飾られました。(その内2つは、ナポリの美術館とルーヴル美術館に保管されています。)そして、舞台の裏側には観客が集うことができる大きな中庭やそれを囲むみかげ石の柱廊がつくられました。

現在の地図に重ねると、ポンペイウス劇場の大きさはカンポ・デ・フィオーリ広場からトッレ・アルジェンティーナ広場までの大きさ!

現在の地図をよく見ると。。。そうなんです。
観客席の半円の形がよくよく残っています。

現在でもはっきりと観客席の内側の半円を描くグロッタ・ピンタ通り

ポンペイウス劇場は5世紀まで使用されていましたが、中世に入り他の建物を建設するための材料として使われたり、劇場を土台として上から違う建物が建設されたため、ほとんど形を残していません。

それでも、ここらへん一帯には、全く形をとどめていませんが、
劇場跡の石壁がホテルの地下などに残っています。

さて、カエサルが暗殺されたのは、ポンペイウス劇場の舞台後方の回廊に位置したポンペイウス元老院議事堂。現在は、前出の地図で黄色の星をつけた地点、アルジェンティーナ劇場あたりに当たるそうです。

紀元前48年ファルサルスの戦いで政敵ポンペイウスから勝利を勝ち取ったカエサル。しかし紀元前44年3月15日、皮肉にもポンペイウス劇場のポンペイウスの彫像の足元で暗殺されました。(このポンペイウスの彫像は、現在、ローマのスパーダ宮殿に保管されています。)その後、その場所は、カエサルの後継者アウグストゥスによって壁で塞がれました。

ポンペイウス劇場の遺跡としてローマに今でも残っているのが、この赤い大理石トラバーチンの円柱。現在は、1486年から1513年にかけて造られたルネッサンス初期建築の傑作カンチェッレリア宮殿の中庭に使われています。

ちなみに、ポンペイウス劇場は遺跡がほとんど残っていませんが、カエサルが建設を開始し、後継者のアウグストゥスが完成させたマルケッルス劇場は、ローマに残っています。


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Natsuko Tomi
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