Natsuko Tomi

歴史、特に古代史に魅かれています。現在、中部イタリア在住のため、おもに古代エトルリア文…

Natsuko Tomi

歴史、特に古代史に魅かれています。現在、中部イタリア在住のため、おもに古代エトルリア文明や古代ローマについて執筆。金銭ではなく、心が豊かな社会になるよう願い、同じような考え方の方と繋がって、「和」を広げていきたいと願っています。

マガジン

  • エトルリア文明

    紀元前8世紀から、ローマ帝国に滅ぼされる紀元前1世紀頃にイタリア中部で栄えた文明の記事。ギリシャ文明や古代ローマと交流を持ちながらも、権力や武力が優位にたつ男性性の強い社会ではなく、女性の地位を下げることはなく大地母神を敬った文明。

  • 古代ローマ

    紀元前753年イタリア、ローマで王政ローマが誕生してから、共和政、帝政と政治形態を変更しながら領土を拡大した古代ローマ。その繁栄から476年の滅亡までの遺跡をたどりながら書いた記事のまどめ。

  • 独り言の読書記録

    主にイタリア語で読んだ本の読書記録。イタリア在住でイタリア語で読んだからこそ感じられる感想を書いています。

  • イタリアの伝統仮面演劇 コンメディア・デッラルテ

    コンメディア・デッラルテのイタリア人俳優が、特に若者に伝えたいとつくっている動画を通し、イタリア、ヨーロッパの文化、時事問題などを紹介

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  • 固定された記事

ボルセーナ湖を中心とするエトルリア圏でキリスト教が認められるのに貢献した聖クリスティーナの真の姿とは

キリスト教には、たくさんの聖人がいます。模範的な信仰と徳行を示し、奇跡的な出来事が関連付けられた人物が、教会によって列福および宣聖されるのですが、キリスト教史初期の聖人は、主に、ローマ帝国によってキリスト教が禁止されている中、どのような苦難にあっても、信仰を貫き、殉教していった人達でした。 中でも4世紀初頭、ディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害により殉教した聖クリスティーナは、数多くの拷問を受けました。 ヤコブス・デ・ウォラギネが1260年頃に書いた黄金伝説によると、聖

    • 巨岩に守られるように建てられたエトルリアの小さな神殿

      (この記事は、2023年2月6日に書いた記事を、大幅に加筆、修正したものです。) イタリア中部、ローマの北北西、現在のヴィーコ湖周辺には、古代とても深い森がありました。エトルリアとローマの領地の境目に位置してしていたその森は、チミニの森と呼ばれ、太陽の光も届かず、一度入ると方向感覚を失い迷い込みそうで、紀元前四世紀、都市国家だった時代の古代ローマの軍隊でさえ入るのを恐れたほどでした。それゆえ、ローマの侵攻からエトルリアを守る役割をしていたのです。今でもわずかに残るその森は、

      • ヴィテルボに残るFAVLの頭文字とエトルリアの聖域ファヌム・ウォルトゥムネ

        中部イタリア、ローマと同じラッツィオ州にある都市ヴィテルボは、中世の街並みが残る「ローマ教皇の町」として知られています。それは、1257年にローマ教皇アレクサンデル4世が、教皇派と皇帝派が争っていたローマから、ヴィテルボにローマ教皇庁を移したことによります。それから、28年間ローマ教皇庁はヴィテルボにあり続け、またその後も数々のローマ教皇や枢機卿が滞在したヴィテルボは、中世の時代とても繁栄しました。 教皇選挙を表す「コンクラーベ」と言う言葉も、まさにこのヴィテルボで生まれま

        • 第3代ローマ教皇に起源を持つローマに25堂ある枢機卿名義教会の一つサン・クリソゴノ教会

          ピラミッド型のローマ、カトリック教会の頂点に立つのがローマ教皇。その教皇に次ぐ位置につき、教皇を支えるのが枢機卿です。緋色の服を身に纏った彼ら枢機卿は、ローマ教皇が亡くなるとコンクラーベと呼ばれる教皇選挙にて、次期ローマ教皇を選出する権利を有します。 現在、枢機卿は全世界に236人。そのうち一人は、日本人です。 枢機卿は、イタリア語でcardinaleと言いますが、それはラテン語の「cardo(蝶番)」に由来しています。これは、枢機卿が、教会にとって、回転の中心である蝶番

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        記事

          丸い形が美しいルネサンス建築の傑作ブラマンテのテンピエット

          イタリア、ローマのテヴェレ川右岸に位置するジャニコロの丘の上に、建築家ドナト・ブラマンテが、カトリック両王(カスティーリャ女王イザベル1世とアラゴン王フェルナンド2世)に依頼を受け、1502年から1509年頃に建てた小さな円形の礼拝堂テンピエットがあります。 イタリアでは、Tempietto di San Pietro in Montorio または、単にTempietto del Bramante と呼ばれています(テンピエットは、tempio (神殿、教会)の縮小形で、

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          古代ローマ時代だけではない、ローマを守ろうとしたサン・パオロ門

          古代ローマ時代の西暦271年から275年にアウレリアヌス帝によって造られたローマのアウレリアヌス城壁。城門を含め、現在でもかなりの部分が残っています。そして、南西に位置する堂々としたサン・パオロ門は、中でも保存状態のよい門の一つです。 このサン・パオロ門から、オスティエンセ街道が始まり、港町オスティアを結んでいたので、古代ローマ時代は、オスティエンセ門と呼ばれていました。 港と首都ローマを結ぶオスティエンセ街道には多くの交通量がありました。そのため、城壁に入る手前のカイウ

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          エジプトではなく、イタリア、ローマに現存する唯一のピラミッド

          イタリア、ローマの南西、オスティエンセ街道沿いに真っ白に輝くピラミッドがあります。このピラミッドは、古代ローマ時代の紀元前18年から12年頃につくられた2000年以上の歴史のあるお墓です。 中に埋葬されたのは、「供儀の七人官」の一人であったガイウス・ケスティウス・エプロという人物。彼はピラミッド型のお墓を建立するよう明白に遺書に遺しただけではなく、期限内に出来上がらなければ豊かな財産の相続権を剥奪するとまで記しました。そのため、相続者は、急いでピラミッドを建立、わずか330

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          古代ローマ時代の強すぎる数へのこだわり。その起源は?

          古代ローマにおいて、王政時代から帝政時代に入るまで500年間も効力を持ち続けた超優秀な政治制度の改革を行ったのは、6代目の王セルウィウス・トゥリウス(在位:紀元前578年‐紀元前535年)だと考えられています。 セルウィウス・トゥッリウスが行った政治改革 帝政ローマ初期の歴史家ハリカルナッソスのディオニュシオスによると、この改革で、ローマ市民は、まず、家長の資産をもとに、6階級に分けられました。100ミナ(通貨の単位)以上を持つ者は第1階級に、75から100ミナの者は第2

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          イタリアのボルセーナ湖と竜と戦った聖ゲオルギオスとの深い関係

          世界で2番目に大きいカルデラ湖である中部イタリアのボルセーナでは、古代エトルリア時代には水の女神であったと考えられるウォルトゥムナが崇められていました。現在はその跡をキリスト教の聖クリスティーナが継いでいると思われる、という記事を前回書きました。 その聖クリスティーナに捧げられた教会が、ボルセーナにあるサンタ・クリスティーナ教会です。(この教会は、ボルセーナの奇跡が起こったことでも有名です。) このサンタ・クリスティーナ教会には、聖クリスティーナの装飾と同様に、聖ゲオルギ

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          【古代ローマ英雄伝説に隠された真実】ローマを震撼させたエトルリアの王ポルセンナ

          紀元前509年、古代ローマは第7代にして最後の王タルクィニウス・スペルブスを追放し、共和政に移行しました。しかし、権力を奪われたタルクィニウス・スペルブスは、そう簡単に王位を手放そうとはしませんでした。エトルリア出身であった彼は、まず、エトルリアの都市カエレを頼り、さらにはキウージのルクモネ(宗教、政治の最高権力者)ラルス・ポルセンナにローマと戦争するよう説得します。 ポルセンナは、有能な軍の指揮官であっただけでなく、狡猾な政治家でもありました。そのため、キウージを含む中部

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          古代ローマのインフラの要「マッジョーレ門」

          ローマの中心から南東の方向に、建造された当時は真っ白であったであろうトラバーチン(大理石の一種)のブロックをその頃の様式で大胆に積み上げた、まるで凱旋門かのような門があります。3本の柱と2つのアーチで構成されていて、柱の真ん中は向こう側に通じており、神殿のような三角の屋根やコリント式の半円柱で飾られています。古代ローマ時代に造られたこの建造物は、現在、マッジョーレ門と呼ばれています。名前の由来は確かではありませんが、この場所から道一本でたどりつけるサンタ・マリア・マッジョーレ

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          ローマ最古の円形の教会「サント・ステファノ・ロトンド」

          珍しい丸い形をした初期キリスト教建築のサント・ステファノ・ロトンド教会。(ロトンドは、「円形の」という意味)ローマ最古の円形の教会で、最初の殉教者ステファノに捧げられています。その形から、古代ローマの神殿を彷彿させ、多神教の神殿を教会に転用したものかと思いそうになりますが、この教会は、西暦460年頃に最初から教会として建造されています。 古代ローマ時代、この場所には、食料物資の貯蔵や軍事通信の処理などを担う準軍事部隊の隊員が駐屯していた兵舎がありました。 ただし、この場所

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          ローマの7つの丘の一つ「チェリオの丘」古代ローマの遺構めぐり

          ローマの7つの丘の一つチェリオの丘は、古代「オークの木の山」と呼ばれていました。そこへ、ローマ3代目の王トゥッルス・ホスティリウスのもと攻撃され破壊された町アルバ・ロンガの住民が移住させられ、開拓がはじまります。 その後、エトルリアの英雄カエリウス・ヴィベンナが、駐屯したことにより、現在のようにカエリウス(イタリア語でチェリオ)の丘と呼ばれるようになりました。6代目の王セルウィウス・トゥッリウスは、カエリウスの副官として、チェリオの丘を占領し、その後ローマ全体を支配したとも

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          【隠蔽された歴史】古代ローマはエトルリアに征服されていた?ローマの七丘に名前が残るエトルリアの兄弟

          古代ローマの、建国から七代続く王政時代の歴史(紀元前753年‐紀元前509年)は、口承に基づいており、伝統的に語り継がれている歴史とは、異なるバージョンがあることもあります。 例えば、奴隷の子であったとされる6代目の王セルウィウス・トゥッリウス(在位:紀元前578年‐紀元前535年)は、5代目の王タルクィニウス・プリスコの養子となり、女王タナクィルの機転で王位を継承したと一般的に信じられていますが、この説とは異なる考古学的・文学的資料も存在するのです。 その中で最も重要な

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          イタリアのクリスマスの飾り付け「プレゼピオ」の起源を古代に探る

          クリスマスが近づいてきました。 キリスト教を信じる人がほとんどいない日本でも、街はクリスマスのデコレーションで賑わいますが、国民のおよそ80%がキリスト教カトリック信者であるイタリアでは、なおさらのことです。 今となっては、クリスマスツリーやサンタクロースなどの、イタリアが起源ではない飾り付けも欠かせませんが、イタリアのクリスマスのデコレーションと言えばプレゼピオ(プレゼーペとも呼ばれます)。イタリア人の信心深さが表れている飾り付けです。 プレゼピオは、イエス・キリスト

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          古代イタリア文明エトルリアは、なぜ12の都市で連盟をくんだのか

          古代ローマ以前、中部イタリアでは、エトルリア人による文明が繁栄していました。エトルリア人(エトルスキ)は、統一国家を築くことはなく、12都市連盟と呼ばれるゆるやかな連合を形成していました。それは、政治、軍事目的でつくられたわけではなく、宗教祭祀を共同で行うことにより、同一民族への帰属を表明するものでした。 この連盟ですが、エトルリア社会で、たまたま重要な都市が「12」個であったため、12の都市で連合を組んだのでしょうか。例えば、国際連合は1945年51か国の加盟国で設立され

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