ダンテ以前の最も重要な宗教詩人ヤコポーネ・ダ・トーディ
ペルゴレージ、ヴィヴァルディ、ロッシーニ、ドヴォルザークをはじめ、今までに600人以上の作曲家によって曲をつけられたラテン語の詩「スターバト・マーテル(聖母哀傷)」。
イエス・キリストが磔刑に処された際、十字架の傍らにいた母マリアが受けた悲しみを思うこの詩は13世紀にヤコポーネ・ダ・トーディによって書かれたとされています。
ヤコポーネは、中部イタリア、ウンブリアの小さな町トーディで1236年頃に生まれました。由緒ある家柄の出身と思われるヤコポーネは町の公証人として裕福な生活をしていましたが、事故で若い妻を亡くします。それを機にヤコポーネは、世を捨て、宗教運動に身を投じ、約10年後にはフランシスコ会の正規の修道士になりました。
ヤコポーネは、生涯を通じ、90篇を超えるラウデと呼ばれる讃歌を作りました。神からの愛をうたうそれらのラウデを、ヤコポーネは、当時貧しく教養のなかった人々にも簡単に通じるよう、ラテン語ではなく話し言語、後にイタリア語として完成する俗語で書きました。(スターバト・マーテルは、ヤコポーネのラウデの中で、知られる限り、唯一ラテン語で書かれていますが、それはカトリック教会の典礼に取り入れるべき詩であったからです。)カトリック教会が、ミサや典礼の諸儀式において、ラテン語を使うのをやめ、各国語で行うようになったのは、第2バチカン公会議(1962~1965年)のことなので、それよりも7世紀も前にラウデを通し庶民にもわかる俗語で神の教えを説いたヤコポーネは、庶民に寄り添った宗教家でした。
そんなヤコポーネは、60歳前後にローマに滞在し、富や権力をもとめる退廃的な教皇庁の様子を目の当たりにし、教会を批判するラウデを書きます。
かなり明白で辛辣な批判です。そして、このことにより投獄され、時の教皇ボニファチウス8世により破門の宣告をうけました。半地下の牢獄は暗くて寒く、トイレの下水が流れ込みました。そして、面会は許されず、眠る時も手首と足首は鎖でつながれていました。ヤコポーネは、この悪環境の牢獄で、ボニファチウス8世の死後次の教皇により破門が解かれるまで、5年間を過ごしました。
再び自由の身となったヤコポーネは、唯一受け入れてくれた、トーディに近いコラッツォーネにあるクララ女子修道女の小さな部屋で約3年の余生を過ごしました。
亡くなる直前に、音楽のようにリズムが美しく、神への愛に満ちた魂の声のラウダをうたったとされています。
ヤコポーネ・ダ・トーディは、神秘体験を詩に綴った歴史上最も重要な宗教詩人の一人であり、イタリアにおいては、最も重要な宗教詩人であることは間違いないでしょう。
現在、ヤコポーネのお墓は、トーディのサン・フォルトゥナート教会の地下聖堂にあります。
サン・フォルトゥナート教会について:
参考文献:Laudi Jacopone da Todi, Claudio Peri, Fabrizio Fabbri editore 2020
須賀敦子全集 第6巻 河出文庫
(この須賀敦子全集第6巻には、ヤコポーネのラウデの中でも有名なDonna de Paradisoを含む5篇の日本語訳が収められています。)