知られざるイタリアの古代民族ファリシ
ローマの北50kmほど、テヴェレ川と火山由来の2つの湖(ブラッチャーノ湖、ヴィーコ湖)に囲まれた場所は、古代ローマ人よりAger Faliscusと呼ばれていました。これはファリシ人の領土という意味です。
紀元前、古代ローマが生まれる前のイタリア。東のテヴェレ川をサビニ人との境界線とし、残りの北、西、南はぐるりとエトルリアの領域に囲まれた地を領土としたファリシ民族。エトルリアに非常に近い文明をもっていたため、長年の間、学者もエトルリアと同一視していましたが、二つの文明を区別すべき決定的な違いがありました。それは、言語。ファリシ人がつかった言語は、エトルリア語のようにギリシャ起源の文字を使うものの、古代ラテン語に非常に似かよっていたのです。(エトルリア語はラテン語とは違いインド=ヨーロッパ語系に属さない。)
この地を流れるTreja(トレイア)川の峡谷の高台に小さな村ができ始めたのは青銅器時代。しかし、鉄器時代に入る頃(紀元前12世紀~紀元前9世紀)エトルリアの都市ウェイイ(Veii上記地図の緑の丸)が形成されていき、村の住民は領土、権力を拡大していた都市に引き寄せられていきました。
ただし、紀元前8世紀になり、この地域の人口もやっと増えていきます。水の流れによる浸食を何十万年もの間まぬがれることにより残ったそびえ立つ凝灰岩の丘の上に、住居が立ち並びはじめ、ファリシ人の都市Falerii(ファレリー、現Cività Castellana チヴィタ・カステッラーナ)が生まれました。先住民がウェイイに移住したことにより、誰のものでもなくなった肥沃な土地にローマの南からテヴェレ川を遡って来て住み着いた人がいたり(それ故にラテン語に非常に近い言葉をしゃべっていたようです)、またはウェイイからも再びこの地へ戻ってきた人がいたようです。他にも、同じ文明を持つCorchianoコルキアーノ、Vignanelloヴィニャネッロ、Narceナルチェなどの都市が生まれますが、ファレリーは、一番大きく、この文明の第一都市となり、ファリシと呼ばれる民族の名称の由来ともなりました。
なお、トロイア戦争でギリシア側の王を率いて戦った英雄アガメムノンは、戦いの後、故国ミケーネに戻ると妻とその情夫に殺されますが、アガメムノンの庶子(または御者)と言われるハライソスが、その暗殺現場から逃走し、地中海を漂浪したのち、テヴェレ川、さらに支流のトレイア川を遡ったところの高台に住み着いたことがファレリーの起源であるという伝説もあります。
エトルリアの文化も取り入れ、近隣と良好な関係を築いていたファリシ。しかし、同じころローマに生まれた都市国家は、どんどん勢力をひろげていきます。そして、エトルリアの都市ウェイイが紀元前396年ローマに征服されると、ファリシの領土は、ローマの拡大戦略の的になりました。ウェイイ陥落からたった2年の紀元前394年には、ローマ軍に包囲され、平和条約が課されます。その後、ファリシは、対ローマでエトルリアの都市タルクィニアと同盟を結びますが、紀元前343年、紀元前293年と敗北を重ね、紀元前241年最後の抵抗の炎も掻き消され、完全に古代ローマの征服下に置かれました。そして、ファレリーの町は破壊され、住民は5㎞離れた場所に移住を強いられました。
古代ローマが拡大する以前に、テヴェレ川右岸に、エトルリア文化やラテン文化と交流しながら、小さい領土ながらも、独自の文化を築きあげた民族ファリシ。交友的な民族であったことがうかがえます。特に美しい陶器の装飾技術を持っていたようですが、詳しくはまた機会があるときに書かせていただきます。
参考文献:L'ANTICO POPOLO DEI FALISCI NELLA VALLE DEL TREJA,
Marco Pacifici,2015
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