古代ローマのインフラの要「マッジョーレ門」
ローマの中心から南東の方向に、建造された当時は真っ白であったであろうトラバーチン(大理石の一種)のブロックをその頃の様式で大胆に積み上げた、まるで凱旋門かのような門があります。3本の柱と2つのアーチで構成されていて、柱の真ん中は向こう側に通じており、神殿のような三角の屋根やコリント式の半円柱で飾られています。古代ローマ時代に造られたこの建造物は、現在、マッジョーレ門と呼ばれています。名前の由来は確かではありませんが、この場所から道一本でたどりつけるサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂にちなんでいると考えられています。
このマッジョーレ門は、271年ローマ皇帝アウレリアヌスの治世下に建造がはじまったアウレリアヌス城壁の門の一つで、古代ローマ時代には、そこを通る2本の街道の名前からプラエネスティーナまたはラビカナ門と呼ばれていました。
でも、実は、この門は、門として建造されたわけではなく、城壁の建造より200年程前の西暦52年、ローマ皇帝クラウディウスにより敷設されたクラウディア水道が、首都から南東方向へ向かうプラエネスティーナ及びラビカナ街道と立体交差するために設けられた水道橋でした。
しかし、アウレリアヌス帝の時代になると、北方異民族の侵入が激化します。そこで、首都ローマを城壁で防衛することが急務でした。そのため、既存の建物をたくさん組み込みながら城壁が建造されたのです。その長さは全周の最大6分の1になったとも言われています。こうして、クラウディウス帝によって建造された水道橋も、アウレリアヌス城壁に組み込まれたのです。
もともとは、水道橋であったマッジョーレ門。現在でも、サイドから見るとアーチの上部に新アニオ水道(上)とクラウディア水道(下)の導水渠を見ることができます。この2本の水道は38年に皇帝カリグラにより建造が始まり、52年皇帝クラウディウスにより完成されたものです。ともにローマの東アニオ川上流域の泉を水源とし、地上に出てからの最後の10㎞ほどは同じ行程をたどり、ローマに至ります。全長約69kmのクラウディア水道がマルキア水道に次ぐ水質を誇っていた一方、全長約87kmの新アニオ水道は飲料水ではなく、邸宅や公共施設の修景用として造られました。贅沢ですよね。
そして、この場所には、この2本の水道だけではなく、ローマ市民を潤していた11本の水道のうち8本の水道が通過していました。
ところが、この凱旋門のような立派なマッジョーレ門は、ローマ帝国が東西に分割された後の一代目の皇帝ホノリウスの治世下402年に、要塞化され、稜保で塞がれました。城塞の外側には、それぞれの通りにアーチの門が開けられ、その上部には窓もいくつか設けられましたが、不均衡であり、ラビカナ通りの門は、造られてすぐに閉ざされたようです。平和な時代は終わったのです。
古代ローマ時代の姿に戻ったのは、1838年。ローマ教皇グレゴリウス16世により、アンバランスなホノリウス帝時代の建造物が、ようやく取り壊されました。
その際、稜保の内側に組み込まれていた、穴がポコポコと開いている奇妙なモニュメントが発見されました。
これは、パン屋エウリサーチェと、その妻アティスティアのお墓でした。中からは、パンをこねる用の箱の形をした妻の骨壺がみつかっています。なぜ、このような場所にお墓があるのか不思議ですが、お墓が造られたのは水道橋の建造よりさらに前の紀元前30年頃でした。エウリサーチェは、財を成した解放奴隷であったようです。
今から2000年も前に、今と同じようにパン屋という職業が存在していたのです。古くからあった職業程なくならないのかもしれません。ちなみにイタリア語で「il mestiere più antico del mondo(世界で一番古い職業)」と言えば売春婦のことを指します。
古代ローマ時代、11本のローマ水道のうち8本が集まり、インフラの要であったマッジョーレ門付近。現在は、ローマの6本のトラムのうち4本が通過します。
そして、マッジョーレ門の近くに鉄道も走ります。その線路沿いをローマテルミニ駅の方向へ300mほど向かうとミネルヴァ・メディカ神殿と呼ばれる、これまた古代ローマ時代の建造物があります。
4世紀に遡るこの建物は、十角形で、もとは直径25mのクーポラが取り付けられていました。まるで神殿かのような建物で、現在もミネルヴァ・メディカ神殿と呼ばれていますが、それは16世紀にそのように勘違いされたからであり、本当は貴族の庭にあった楼閣のような建物で、客を食事でもてなす間であったようです。もともとは、大理石で覆われ、クーポラにはモザイクでデコレーションが施されていました。また、床下や壁の中に、炉から熱い空気が送られる暖房施設まで設備されていました。
マッジョーレ門やミネルヴァ・メディカ神殿が残るこの地域は、古代ローマ時代、近くに紀元前477年に建てられた希望の女神の神殿があったことより、ad Spem Veterem(古い希望へ)と呼ばれており、古代遺跡が豊富に残っています。
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