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ローマの7つの丘の一つ「チェリオの丘」古代ローマの遺構めぐり

ローマの7つの丘の一つチェリオの丘は、古代「オークの木の山」と呼ばれていました。そこへ、ローマ3代目の王トゥッルス・ホスティリウスのもと攻撃され破壊された町アルバ・ロンガの住民が移住させられ、開拓がはじまります。

その後、エトルリアの英雄カエリウス・ヴィベンナが、駐屯したことにより、現在のようにカエリウス(イタリア語でチェリオ)の丘と呼ばれるようになりました。6代目の王セルウィウス・トゥッリウスは、カエリウスの副官として、チェリオの丘を占領し、その後ローマ全体を支配したとも言われています。

共和政時代後半頃には、チェリオの丘は、完全に都市化され、住宅街となっていました。中には、ユリウス・カエサル軍の技術総督として財を成したマムッラの家のような贅をつくしたものもありました。その豪邸をプリニウスは、壁は大理石で覆われ、柱も様々な種類の大理石が使われていたと残しています。そして、第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウスは、この丘の上にあった母親の家で生まれています。

キリスト教の伝統によると、後に聖人となったローマ時代の2人の将校ヨハネとパウロの兄弟の家も、チェリオの丘にあったとされています。熱心な信者であった二人の兄弟は、背教者と呼ばれるユリアヌス帝による迫害の犠牲となり、西暦362年に自宅で殺され、この地に埋葬されたと言われています。現在、その場所には、二人に捧げられた教会、Ss.Giovanni e Paoloサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂が建てられています。(イタリア語にすると洗礼者ヨハネと使徒のヨハネもジョヴァンニですが、この兄弟のジョヴァンニとは別人です。また、パオロも新約聖書の著者のパウロとは別人です。)

Basilica di Ss.Giovanni e Paolo
サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂
教会内部
シャンデリアの教会とも呼ばれ、結婚式を行うのにも人気が高い。

1887年に、この二人のお墓を探すため、教会地下の発掘が行われました。すると、2世紀から4世紀後半に改築が重ねられた古代ローマ時代の住居跡が発見されたのです。2世紀初頭頃の邸宅跡は、豪勢な2階建てで、階下にはテルマエ(温泉)や中庭があり、そこには3世紀に描かれた「プロセルピナ」と海の神々を描いた優雅なフレスコ画が残されていました。

3世紀に描かれたプロセルピナと海の神々
Di user:Lalupa - Opera propria, Pubblico dominio,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=540910

その後、3世紀に入ると、通り沿いにはアーケード付きの商店が立ち並び、2階は、庶民用のアパートとして使われていたようです。通りは、今でもローマ時代と同じところを通っており、同じ名前Clivus Scauriクリヴゥス・スカウリ(スカウロの坂道/イタリア語でClivo di Scauro)と呼ばれています。

クリヴゥス・スカウリ(教会の側面の通り)
特徴的なレンガのアーチは中世の時代のものですが、
古代にもすでに存在し、1500年代ぐらいまではアーチが2段であったと考えられている。

その後、1階は、邸宅部分と商店部分がつなげられた大邸宅となり、2階は賃貸アパートとなったようです。そして、二人の兄弟ヨハネとパウロが、ここで殺されて後、この家に信者が集まり崇拝する神聖な場所となりました。そして、5世紀になりサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂が建てられたのです。

教会が建てられる前に信者が集まっていた聖遺物を納めた部屋
Di Lalupa - Opera propria, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6587807

教会の右手には、12世紀初頭の修道院とロマネスク様式の見事な鐘楼あります。

サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂の鐘楼

この鐘楼と修道院は、古代ローマ時代のクラウディウス神殿の一部を土台として建てられています。今でもトラバーチンの大きなブロックを鐘楼の基礎部分に見ることができます。

修道院に入ることはできませんが、門からのぞいてみると
奥にクラウディウス神殿のアーチを見ることができます。

クラウディウス神殿は、西暦54年に皇帝が死去した直後、妻の小アグリッピナによって建設が始められましたが、ネロ帝が「ドムス・アウレア(黄金宮殿)」のニンファエウムに組み込むために一部取り壊した後、ヴェスパシアヌス帝によって再建されています。現在は、ほぼ何も残っていませんが、180m×200mの敷地の大きさを誇り、後に隣にできたコロッセオに引けを取りませんでした。

コロッセオの左がクラウディウス神殿。その横をネロ帝の水道橋が走る。
Di Jean-Pierre Dalbéra from Paris, France - Détail de la maquette de Rome à l'époque de Constantin, CC BY 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24669233

古代ローマ時代、チェリオの丘を、アッピア水道、マルキア水道、ユリア水道、クラウディア水道と4つの水道が通過していました。このうち最初の3つは、地下を通っていましたが、クラウディア水道は、皇帝ネロが先述の宮殿「ドムス・アウレア(黄金宮殿)」のニンファエウムに水を引き込むためにつくった分岐水道で、19m~22mの高さを誇るアーチが連なる水道橋の上を流れていました。

このネロ帝がつくらせた水道橋は、テルミニ駅の近くに位置するマッジョーレ門から、チェリオの丘までつながっており、現在でもいくつかの遺構をみることができます。

水の流れとは逆行して、水道橋をたどった遺構の数々です。

チェリオの丘の西側に残る、
セルウィウス城壁のカエリモンタナ門に支えられたネロ帝の水道橋。
カエリモンタナ門は、現在紀元前10年に再建した執政官の名をとり
ドラベッラとシラヌスのアーチと呼ばれている。
門の内側から見た水道橋
Via della Navicellaナヴィチェッラ通りに残るネロ帝の水道橋跡
Via Santo Stefano Rotondoサント・ステーファノ・ロトンド通りに残るネロ帝の水道橋跡
Piazza di San Giovanni in Laterano
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ広場に残るネロ帝の水道橋跡
Piazza di Porta Maggioreマッジョーレ門広場に残るネロ帝の水道橋跡
ネロ帝の水道橋

コロッセオのすぐ近くの丘にもかかわらず、観光客がほとんど訪れないチェリオの丘。現在、標高は50mほどで簡単に登ることができます。ローマ訪問に時間の余裕があるならば、まだ知られていないチェリオの丘からマッジョーレ門まで、ネロ帝の水道橋跡をたどって、散歩するのもいいかもしれません。

https://note.com/natsuko_tomi/n/n9c79dc4f1909

チェリオの丘のローマ帝国時代の邸宅
(2024年1月現在)
一般:8ユーロ
割引:6ユーロ 
(12人以上のグループ、ガイドツアー購入者、6~14歳の子ども)
予約権:2ユーロ
開館時間:10時から16時(12月24日31日は14時まで)
(チケット売り場は1時間前に閉まります)
休館日:祝日と重ならない火曜日、木曜日。1月1日。12月25日。



参考文献:https://www.romasegreta.it/celio.html

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Natsuko Tomi
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