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ラスト・サムライならぬラスト・エトルスコ ペルージャに遺る移り変わりの時代に生きたエトルリア人のお墓
イタリア半島中部、海に面さない緑の💚と呼ばれるウンブリア州。その州都ペルージャ近郊にあるパラッツォーネの丘で、1840年に道路拡幅工事が行われていた際、地下に降りる階段状の物が偶然発見されました。その階段を掘り進むと大きな石の扉にぶち当たり、その扉を開けてみると、現れたのは紀元前3~2世紀ごろにつくられた地下埋葬室でした。2000年以上もの間、荒らされることなく、土の中で眠り続けたお墓が天井部分も含め完璧な形で発見されたのです。中からは骨壺が納められた7つの石棺がみつかりました。最初に足を踏み入れた方の体験はどんなに神秘的だったことでしょう。その後の調査により、貴族Volumnius(エトルリア語ではVelimna)家のお墓だと判明し、現在イタリア語でIpogeo dei Volumni(ヴォルムニウス達の地下埋葬室)と呼ばれています。そして、このパラッツォーネの丘からは、このヴォルムニウス家のお墓だけではなく、斜面の岩を彫ってつくられたお墓が石棺や埋葬品が中に残ったまま200ほどみつかりました。
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並べられた石棺は、パラッツォーネの丘に数ある地下のお墓から発見されたもの。発見時は、現在ほど注意が払われていなかったため、彫刻のテーマごとに並べられており、どのお墓から発見され、どの家族に属すのかという情報がわからなくなっている石棺もあり、現在調査中である。
これらのお墓は、エトルリアの文化に属しており、紀元前3世紀から1世紀の間につくられたものが多く、中には紀元前6世紀から5世紀のお墓も少し、さらには紀元前9世紀から8世紀につくられたエトルリアより古いヴィッラノーヴァ文化に属するお墓もみつかっています。
エトルリアは、統一国家はつくらず、12の都市国家で緩やかな連盟を形成していました。そして、毎年、各国家の政治、軍事、宗教の統率者であったルクモネと呼ばれた首長が、ファヌム・ウォルトゥムネ(ウォルトゥムナ神に捧げられた聖域)に集まり、共同で祭祀を行うとても宗教心の高い民族でした。特に死後の世界を重んじていたエトルリアでは、各地でネクロポリスが発見されており、12の都市の中でも栄えたタルクィニアやカエレの壮大なネクロポリスは、世界遺産に登録されています。
Ipogeo dei Volumniが発見されたペルージャもエトルリアの12都市連盟の一つでした。ペルージャは、古代民族ウンブリア人によって築かれたとローマ時代の文献が残りますが、考古学的証拠は発見されておらず、紀元前9世紀のエトルリア人の元祖と言われているヴィッラノーヴァ人の痕跡があり、さらにはエトルリアの領域であったテヴェレ川右岸に位置するため、もともとエトルリア人によって築かれたのではないかとも考えられています。
エトルリアの都市でも、海岸近くのタルクィニアやカエレが、紀元前7世紀に黄金時代を向かえたのに対し、内陸のペルージャが都市として形成されたのは、ローマよりも遅い紀元前5世紀でした。ただ、ローマに近いエトルリアの各都市は拡大していくローマに圧倒されていくなか、ローマからの影響をすぐに受けず自由であったペルージャは、紀元前4世紀に発展していきます。
しかしながら、エトルリア時代のペルージャの栄光は長くは続きませんでした。紀元前3世紀がはじまってすぐの295年、ローマに対し、サムニウム人、ガリア人、ウンブリア人とともに戦ったセンティヌムの戦いで、ペルージャは敗北し、休戦協定が結ばれました。その後、他の都市(ヴォルシニイ(紀元前264年)やファレリー(紀元前241年)など)のようにローマにより直接都市を攻撃され、被害を被ることはなかったようですが、ペルージャにおけるエトルリア文明は、政治的、社会的、経済的な影響力を失っていき、徐々にローマ化されていきました。
Ipogeo dei Volumniは、このような、時代の過渡期につくられたお墓です。お墓がつくられた紀元前3~2世紀、ペルージャはすでにローマに敗北を喫していましたが、エトルリアの文化はすぐに消え去るわけではなく、エトルリアの方法で地下への埋葬が続けられていたのです。
Ipogeo dei Volumniのトラバーチンの重い石の扉の向こうには、T字型のエントランスがあります。その縦のライン側面には左右対称に2つずつ部屋が彫られ、横のラインの奥には3つ部屋があります。また、エントランスの天井は木製の垂木を模した形に彫られています。それは、生前に住んでいた家と同じ形を地下につくったものでした。
入り口の扉の正面、奥の真ん中に掘られたTablinoと呼ばれる応接間に、亡くなる前と同じように宴に参加する家族のメンバーの石棺が置かれています。
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石棺が博物館に移動されることなく、埋葬室の中に残っているのでとても印象的です。
しかも、石棺だけでなく遺灰も中に残っています!
しかしながら、私が訪れた2025年1月現在修復中のため、残念なことに石棺が入り口部分に移動されており、近づくことができませんでした。この写真は、雰囲気を理解していただくために、https://www.musei.umbria.beniculturali.it/musei/ipogeo-dei-volumni-e-necropoli-del-palazzone/
からお借りしました。
石棺という言葉を使っていますが、火葬されていたため、これらは骨壺を納めるトラバーチンの蔵骨器でした。実際、石棺にしては長さが短いのですが、特に真ん中の一番大きな遺灰入れは、石棺と呼んでもよいほどの豪華さです。
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クッションを二つ肘置きに上体を起こして宴に参加している様子を表している。
この写真は、修復中のため土台の部分から外されていた時に撮ったもの。
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両脇に立つ翼を持った女性は、Vanth(ヴァンス)と呼ばれる女神。亡くなった人の存命中の行為を記した羊皮紙と、たいまつを持ち、故人の魂を死後の世界へ優しく導いていた。
キリスト教の天使の原型なのではと思う。
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Arnthの兄弟LarthとVel、父Aule、祖父Thefriの石棺である。
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ウエスト部分をたくしあげた少し大きめの服を着ており、もし結婚する年齢まで生きていたならば一緒に葬られることのなかった存在。
予定していなかったスペースが彼女に捧げられたことがわかるらしい。
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そして、唯一、宴に参加している家族のメンバーではなく、大理石でつくられた神殿風の石棺があります。神殿の入り口部分に彫られている名前Publius Volumnius Violensはラテン語で、他の石棺とは200年程の歳月の差があります。彼が生きた時代は、ローマが共和政から帝政へと移り行く時代であり、エトルリアがローマに敗北してからは250年ほどの歳月がたっているのです。ラテン語の名前を持ち、もはやローマ人として生きた彼ですが、自分が血を継ぐエトルリア人の祖先のお墓で祖先と同じ方法で埋葬されることを願ったのです。そして、使うことのなかったであろうエトルリア語読みの自分の名前を神殿の屋根に彫らせたのでした。
この地下埋蔵室は全部で7部屋あります。しかしながら、他の部屋からは石棺が発見されていません。末永く子孫が使えるお墓をつくったのでしょうが、Publius Volumnius Violensを最後に、この地下埋葬室は使われることはありませんでした。Publius Volumnius Violensは、エトルリア人として最後に埋葬されたラスト・エトルスコだったのです。
(最後のエトルリア人・エトルスキ(羅:Etrusci 伊:Etruschi)とは、エトルリア人(男性複数形)のことで、Etrusucoは、伊語男性単数形。ラテン語の男性単数形は、Etrusucus)
歴史の年表を見ていると、ある日突然時代が変わったかのように思われます。しかし、毎日、日々の生活をしている人々にとっては、昨日と今日に劇的な変化はないのです。それでも、時代は変わっていってしまうものです。
日本でも、縄文時代、弥生時代、古墳時代と時代に名前がつけられ、様々な時代をうつりかわり、風習や文化が変わってきました。しかし、現在ほど日本から日本らしさがなくなっている時代はないのではないでしょうか。
宗教心の強かったエトルリア人は、自分達の文明が10世紀だけ続くという運命を数秘術的にあみだし信じていたようでが、私は、調和のとれた美しい日本の社会、健康的な日本食、これらすべての日本の文明が末永く続くことを願っています。そして、近年は、noteやYouTubeなどで日本の神話や伝統などを発信している人が多いことに、希望の光を見出しています。
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これは、夫婦が寄り添って宴に参加している様子が彫刻された石棺の蓋。
この時代、ギリシアでもローマでも宴席に同席する女性は高級娼婦でしたが
エトルリアでは貴族の女性が男性と同じ権利をを持ち宴に参加していました。
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