見出し画像

古代ローマの港オスティア・アンティーカ〈前編〉

古代ローマ時代テヴェレ川の河口部に位置していた都市オスティア・アンティーカ。19世紀初期に発掘が始まった遺跡は、ポンペイに次ぐ大きさで、未だに60%は土の中に眠っています。

現在は海岸から3㎞内陸に位置しますが、ラテン語で"Ostium"とは河口を意味したことからついた町の名前が示すように、古代ローマ時代は海に面していました。

文献によると、都市が建設されたのは、紀元前620年。王政ローマ第4代の王マルクス・マルキリスによってでした。ただ、今のところ発掘された遺跡で一番古いものは、紀元前4世紀、ローマの軍事拠点として要塞化されていた時のものです。

古代ローマの都市づくりは、町の中心地のフォルム(公共広場)と、そこを直角に交わる2本の通り(「カルド」と呼ばれる南北のメイン通りと「デクマヌス」と呼ばれる東西のメイン通り)を中心になされました。

オスティア・アンティーカでもこの2本の通りをみつけることができます。東西の通りは、東の門を出るとオスティエンセ街道につながっており、東へ24㎞進むと首都ローマにたどりつきました。しかし、西側は川の河口に向かう通りと、海岸に向かう通りとに二股に分かれてしまいます。そして南側では、ある地点で南西に方向が変わってしまいます。実は、これらの斜めに伸びた通りはもともとは城壁外だったのです。町は発展をつづけ、無秩序に通り沿いに建設が進み、それをそのまま紀元前1世紀に一回り大きな城壁で囲みました。そのため、オスティアでは、この2本の通りは、きれいな十字ではないのです。

1世紀にはテヴェレ川対岸にオスティア港が建設され、首都ローマに穀物を供給するための港湾商業都市としてさらに栄えます。そして、3世紀初期まで繁栄は続き、人口も増え、たくさんの建物が建設されました。

しかし、ローマの衰退とともに、オスティアも滅んでいきます。537年にはゴート族に襲撃され、846年にはサラセン人に略奪され、住民はオスティアを放棄し内陸部に移動しました。

城壁の外に伸びるオスティエンセ街道の南側にはネクロポリスが広がりす。
(ちなみに北側は、テヴェレ川に面しており、公共の地であったためお墓はありません。)
様々な型の埋葬がなされていたことがわかる遺跡が紀元前2世紀頃のものより残っています。
初期には、壁に囲まれた屋根のないスペースで火葬されたのち、
壁に設けられたくぼみに遺灰を納めた骨壺が置かれました。
紀元後2、3世紀には、テラコッタや大理石の棺に入れられたり、
またはそのまま土葬されていました。
オスティエンセ街道から城壁内に入るには通称「ローマ門」をくぐりました。 門は大理石で装飾されており、 アーチの上部には羽根のついた勝利と知恵の神ミネルヴァが飾られていました。
古代ローマには欠かせないテルメ: ネプチューン浴場跡
警官と消防士の兵舎の中庭の奥には皇帝崇拝の信仰の場であった神殿がありました
4000人収容可能な劇場。現在でも、夏にはここで演劇が催されます。
劇場の奥には、神殿跡が見えます。
神殿は大きな広場の真ん中に位置し、広場はアーケードで囲まれていました。
その床にはモザイク画が描かれており、同業組合の迎賓の場であったと考えられています。
紀元後3世紀後半に建てられたオリエントの太陽神ミトラ信仰の場。
壁に残る絵はさらに古く、紀元2世紀に描かれた 先祖の霊が神となった家の守護神と2匹の蛇。
土地の肥沃さや繁栄を意味している蛇は、ミトラ信仰でも重要でした。

〈後編に続く〉


いいなと思ったら応援しよう!

Natsuko Tomi
よろしければサポートお願いします。今後の活動エネルギーとさせていただきます!