オルヴィエートの神殿跡から探る古代の神殿が向く方角
中部イタリア、ウンブリア州のオルヴィエートの丘の東端、展望の良い場所に、エトルリア時代の神殿跡が残っています。1828年、近くで行われていた道路工事中に偶然に発見されたこの神殿は、現在Tempio di Belvedere(展望の神殿)と呼ばれています。オルヴィエートの丘陵上では、地上に姿を残している唯一のエトルリア時代の神殿です。
紀元前5世紀初頭から紀元前3世紀の最初の数十年ぐらいまで使われていたとされる神殿。紀元前3世紀の前半といえば、古代ローマがエトルリアの領域へどんどん拡大していた時代。ローマに征服されるまで、聖域として使われていたのでしょう。
現在、土台、前面の階段(ただ、当時はポディウム(基壇)と同じ幅があったとされる)、前面の柱4本の基部、外壁のブロックがいくつか残っています。ポディウムの大きさは幅17m奥行き22mで、後部は真ん中が一回り大きい3つのセラ(小部屋)から成り、前面プロナオス(神殿入口)は4本の柱が2重に建てられている構造で、帝政ローマ初期に活躍した建築家ウィトルウィウスが残した著書「建築について」に記されているエトルリア神殿の構造とほぼ一致します。
どの神様に捧げられた神殿かはわかってませんが、近くでみつかったテラコッタ製の盃から、ギリシア神話ではゼウスにあたる、エトルリアの主男神ティニアの碑銘が見つかっています。
また、神殿を装飾していたテラコッタ製の彫像やアンテフィクサもみつかっており、現在は博物館に展示されています。
現在、オルヴィエートの丘陵上はすべて建物で埋まっていますが、エトルリア時代は西半分のみが城塞に囲まれており、東半分は農地などにあてられていたようです。ゆえに、東端にあるこの神殿は城塞外にて他の建物に遮られることなく何を展望していたのだろうとふと気になりました。(「展望の神殿」の名称は、単にこの場所からの見晴らしがいいためにつけられたのだと思います。)
ちなみに、現在のキリスト教の教会は、敷地的に許される限り、東を向いています。つまり、西側に入り口があり、祭壇は東、ゆえに東を向いてお祈りする形になります。これは、キリストは東の空に昇天したとされ、アダムとイブが追放された楽園も東方にあると信じられているからです。また、エルサレムもヨーロッパからみれば東方に位置します。
それでは、キリスト教以前の古代エトルリアの神殿はどちらを向いて建てられていたのでしょうか。
このオルヴィエートの神殿は、北西の方角を向いています。その方角には若干のずれがありますが、この地方一帯で一番高い山アミアタ火山(1734m)があります。最後に噴火したのは18万年前で、エトルリア時代にはに主男神ティニアの住処と信じられていました。そうです、発見された盃に記されていた名前の神様です。
ギリシアの神殿が神様の住居だったのに対し、エトルリアの神殿は聖域であり、宗教儀式を行う場所、捧げ物を供える場所、お祈りをする場所、占いを行う場所であったようです。(※1)そうであれば、この神殿のご神体はアミアタ山であったのではないかと思うのです。
そして、さらに調べていると、とても便利なサイトに行き当たりました。
このサイトは、日の出、日の入りの方角や時刻をマップ上で教えてくれるのですが、このオルヴィエートの神殿上にポイントを合わすと、冬至の日の日の出の光線が神殿正面とほぼ垂直になり(上の図)、夏至の日の日没、北西方向に神殿は向いていることに気づきました。
そこで、エトルリアの神殿は全てこの方向を向いているのかと気になり、タルクィニアの女王の祭壇でも調べてみました。
すると、女王の祭壇は、北西ではなく、ほぼ西を向いており、それは春分、秋分の日と重なることがわかります。
また、エトルリアではないですが、同じような宗教を信じていたファリシのユーノー・クリーテ神殿も北西を向いているようです。しかしながら、木に覆われていて上空写真で確認することはできませんでした。
キリスト教と違い、古代にはたくさんの神様がいたため、神様により方角がかわったのかもしれません。この件に関しては、発見したばかりで、まだまだ証拠がたらず、研究不足ですが、これからも、古代の神殿に行く旅に方角を確認できればと思います。
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