巨岩に守られるように建てられたエトルリアの小さな神殿
(この記事は、2023年2月6日に書いた記事を、大幅に加筆、修正したものです。)
イタリア中部、ローマの北北西、現在のヴィーコ湖周辺には、古代とても深い森がありました。エトルリアとローマの領地の境目に位置してしていたその森は、チミニの森と呼ばれ、太陽の光も届かず、一度入ると方向感覚を失い迷い込みそうで、紀元前四世紀、都市国家だった時代の古代ローマの軍隊でさえ入るのを恐れたほどでした。それゆえ、ローマの侵攻からエトルリアを守る役割をしていたのです。今でもわずかに残るその森は、古代及び現生ブナ林の一つとしてユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録されています。
そんなチミニの森は、古代より、木材だけでなく、火山砕屑岩であるペペリーノと呼ばれる石材も豊富に提供していました。それは、Pietraraと呼ばれる村(pietraはイタリア語で石、石材の意)が近くに存在することでも証明されています。
そして、数十年前の2006年、その石材を不法採掘していると通報が入ったことをきっかけに、採石場の調査が行われました。すると、なんとペペリーノの巨岩に囲まれた場所に、古代の神殿が発見されたのです。
その神殿は、ピエトラーラ村から森の中に入り、エトルリア人によって造られた切り通しに一部なっている道を10分ほど歩いたところにあります。まず、現れるのは、巨岩のテラス。そこには、何のためなのか、用途はわからない溝や段が施されています。
この場所からぐるりと回り、テラスの下側に降りてくると、テラスはとても巨大な岩の上部だったということがわかります。
そして、この巨岩の下をくぐり内部に入っていくと
現れたのは、巨岩と同じペペリーノで造られたこの三角屋根の神殿でした。
発見された当初は、巨岩に石壁がとりつけられ羊小屋として使われており、現在よりも地面が高かったため、巨岩の下の通路は塞がれていたようです。
神殿は発見されるまで侵入され荒らされた形跡はなく、内部より、古代ローマ、ドミティアヌス帝(西暦51~96年)時代の銅貨アッセが長い間使用された状態で発見されたので、2世紀頃まで参拝されていたと推測されています。また、神殿には、蝶番の跡があり、扉がついていたと考えられ、神殿内に入れたのは儀式に携わる祭司のみだったようです。
そして、神殿の中からは、左手には盃、右手にはおそらく麦の穂の束を持っていたと思われる、玉座に座ったテラコッタ製の「豊穣の女神デメテル」像と女神の娘「春の女神プロセルピナ」の頭部、ペペリーノ製の水盤、最後の供物が入ったままの器がみつかりました。
現在、これらの像は、ヴィテルボの博物館内に再現された神殿の中に収蔵されています。
この、デメテルの女神像が発見されたことにより、巨岩に囲まれた小さな神殿は、Tempio di Demetra(デメテル神殿)と呼ばれています。
この女神像は、紀元前3世紀頃のもので、ギリシア文化の影響を受けています。
ギリシア神話において、豊穣の女神デメテルはゼウスの姉で、ゼウスとの間に娘ペルセポネー(ローマ神話ではプロセルピナ)を儲けます。デメテルは、ゼウスのことを嫌っていましたが、娘のことは愛していました。ところがペルセポネーは、冥界の王ハデスに連れ去られてしまいます。そこで、娘を探す旅に出て放浪するデメテル。その間、大地は、荒廃し、作物は実らなくなってしまいました。娘が冥界にいると知ったデメテルは、大地に再び豊穣と実りを取り戻す条件として、娘の帰還を求めますが、冥府においてザクロの実をいくつか口にしてしまったペルセポネーは地上に戻ることはできません。そこで、困った神々は、ペルセポネーは、食べてしまったザクロの実の数だけ冥府に残り、それ以外をデメテルの元に戻っていいと定めます。このようにして、デメテルが、娘ペルセポネーがハデスとともに冥界で暮らしている間は、実りをもたらすのをやめたことが季節、四季の始まりとされています。
この神殿内で、娘ペルセポネーが頭部しかないのは、ちょうど冥界から再び現れたところを表しているそうです。
ギリシャ神話でデメテルと呼ばれる豊穣の女神を、ローマ神話ではケレス、そしてエトルリア神話ではVei(ヴェイ)と同一視していました。
ヴェイは、エトルリアの神々の中でも古くから信仰されていた重要な女神と考えられており、エトルリアの12都市の一つであったVeioウェイイは、この女神ヴェイの名に由来しています。ヴェイは、生命の循環、再生の女神でした。古代の人々は、ヴェイに穀物が豊富に実ることだけでなく、子宝に恵まれるよう、妊娠中守ってくれるようお祈りしたのです。そんなヴェイには「母なる」という修飾語がよくつけられていました。
土に埋まり、小さいけれども完璧な状態で発見されたエトルリア・ローマ時代の豊穣の女神に捧げられた神殿。キリスト教による破壊を免れるよう、放棄されたのではなく、逆に隠されたのではないかとも思ってしまいます。現在、発見されたのも、大地の女神、豊穣の女神のことをもう一度崇めなければ、大地が干からびてしまうことを思い起こさすためなのではないかとも。
ただ、この神殿には洞窟をくぐって到達し、近くには泉もあることから、地下の世界に関連が深い女神デメトラやその娘プロセルピナに最終的に捧げられたのだとは思いますが、この女神の像は神殿を取り囲む巨大な岩とは少し不釣り合いでもあります。
このデメトラ神殿のことを調べるとネット上に出てくる文献などでは、女神デメトラに重きが置かれており、巨石についての記載はほぼないのですが、この神殿を囲む巨大な岩は、豊穣の女神デメテルという概念が生まれるずっとずっと古代より聖域として崇められていたのではないかと思うのです。鉄や青銅が存在しなかった時代、母なる大地から与えられる一番強い物は石であり、石から農耕や狩猟の道具をつくっていました。そして、巨岩は神によって配置された私たち人類への贈り物であり、そこは文明が生まれる以前より聖域であったと思うのです。巨石信仰の残る日本で育った私は、この地を訪れ、後に博物館で神殿内でみつかったデメテルの像を見ましたが、人間の形をした女神像デメテルよりも、この巨石に畏敬の念を抱き大地の女神の力を感じたのです。故に、ここはもともと太古の昔から長い間巨石信仰の場であり、それが大地への信仰とつながり、エトルリア時代に入り豊穣の女神ヴェイへの信仰となり、そして紀元前3世紀頃ギリシア文明の影響を受け女神の像がつくられたのではないかと思います。それまでは、日本の神社のように神様の像はなく、巨石がご神体であり、神々の世界への出入り口だったのではないかと。
巨岩に守られた神殿には、巨岩の間から光が差し込みます。テラス状になっている巨岩の上部で、どのような儀式が行われていたのか想像が膨らみます。ところどころに丸い穴があり、献酒が注がれていたかのか、梁をたてる穴だったのか。
文明が発達する以前から、エトルリアの時代、ローマの時代を経て、キリスト教が布教されるまで、名前や形は変われども、信仰され続けた母なる大地の女神。人間は、大きな自然の一部であり、自然をコントールしようなど思ってもいなかった美しい時代。自然に対して人間が再び謙虚になることができる日がくること願っています。
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エトルリアの12都市の一つウェイイについて
参考資料:
Il Santuario di Demetra a Vetralla di Noemi Evangelista
https://www.cemer.it/tesori-detruria-il-bosco-delle-valli-tra-natura-e-archeologia/
https://www.museoetru.it/etru-a-casa-aiser/agosto-e-la-dea-vei
http://www.prolocovetralla.it/2020/11/06/santuario-di-demetra/