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無自覚的に感じ始めているのは次の世代に対する大人としての責任か?

時代劇のような昭和の固定観念から脱却して、
令和の大人になれるようにアップデート中。

ナツキのパパです。

我が家の息子たちが不登校になって以来、もう6年ぐらい経とうとしてますが、痛感したことの1つは、差別は思っている以上に身近な存在だということです。

皆んなが当たり前に暮らしながら常識や普通だと思っていることこそが、実は差別に隣り合わせているということ。

今を生きるボクたちは、これに気付き、気を付けなければ、誰かを傷付けながら生きていることにもなりかねない、と思います。

それと、話は急に変わりますが、身近な人が、自分の価値観や存在意義について悩むシーンに、毎年1〜2回遭遇します。

それで毎回のように感じるのだけれど、周りと比較して自分が優れているのか劣っているのか、そのような考え方って、日常生活を送るうえでは、ほぼ必要ないというか、重要なことではない、と思うんですよね。

もちろん、アスリートのように優劣を競う事で成立する世界に身を置き、その世界の中の文脈でいうのは別ですけどね。

これを掘り下げていくと、目的と手段の話もしたくなり、風呂敷を広げすぎて自分で収集がつかなくなりそうですけど。

ただ、存在意義で悩む、自分の価値で悩む、これってとても多いことだなぁと思う一方で、そこの評価尺度とか基準に優劣のある物差しを置いてしまうと、大抵は他者比較とか相対評価をしてしまうのとになるので、極論だけど、それってオリンピックの金メダリストとかでない限り自分の幸福度を下げる結果にしかならない考え方だと思うんですよね。

だから、優れているのか劣っているのかを考えること自体に、そもそも余り良い意味はないのかなと思ってます。

子どもに対しても、自分自身に対しても。

もしどうしても自分の立ち位置や現在地が気になるのであれば、他人ではなく過去の自分と比較してみるのが良いと思うんですよね。

自分がどれだけ成長したのか、目標にどれだけ近づいたのか、そう振り返ることで、答えが見つかれば良いのかなと。

あぁ、とりとめなくまた話題を変えてしまいますが、若い頃には思いもしなかったことがあります。

40歳になった頃からですが、ボク自身、ボク個人の話として、仕事に求めるものが変わりました。

それは「やりがい」「成果」「給与」「成長」といったものから、「誰かの役に立ちたい」とか「社会貢献がしたい」といったものへと重心が移動したというものです。

言い換えれば、少しだけ自分個人から自分を取り巻く社会に対してフォーカスするようになった、ということかも知れません。

もちろん、前者の要素が無くなった訳ではありませんし、今も現実的な意味で重要な部分はあります。

でも、逆に言えば、世のため人の為みたいな聞こえの良い部分や、若い頃には優先することのなかった理想論に魅力を感じるようになったんですよね。

もしかたら、子どもの親としての経験や、仕事を通じて触れる社会の仕組みや若い世代とのコミュニケーションから感じるモノで、自分の社会的な役割とか、次の世代に対する大人としての責任のようなモノを、年齢を重ねると共に無自覚的に覚えているのかも知れません。
(いや、知らんけど。笑)

話が全く異なってきましたが、これらの話には、何となく、どこかで共通点があるやうにも感じています。

それは、成長や経験によって獲得された部分なのだと思います。

不登校から気付いたこと、差別は私たちの身近に存在していること。
自己評価は他人ではなく、過去の自分と比較する方が良いこと。
仕事の価値観の変化、自分から社会貢献へのシフト。

人それぞれだろうし、何が正解とかを主張する意図は全くないけれど、成長や経験によって獲得された共通点として、これらは、もしかしたら他の皆んなにとっても、人間としての深い共鳴を呼ぶテーマにだったり、大人になることの一部だったりするのかな〜なんて、そんなことを思ふ、疲れ切った秋のとある日曜日の夕暮れの独り言でした。


過去のボクは昭和の固定観念や慣習に縛られ、自分や家族を苦しめていた事に気付きました。今は、同じ想いや苦しみを感じる人が少しでも減るように、拙い言葉ではありますが微力ながら、経験を通じた想いを社会に伝えていけたらと思っていますので、応援して頂けましたら嬉しいです。