【悪性リンパ腫・闘病記⑩】飽き、の話
朝起きると陰毛が全て抜け落ちていました。
あ、そこから抜ける感じ??
と、驚きを隠せません。でも、デリケートゾーンが蒸れなくなって爽快な気分です。髪の毛は若干抜け始めていますが、まだ気になるほどではないです。ニキビを一つ潰しました。今日は2024年9月15日。朝は鮭のおにぎりを食べました。
「飽き」と言うものは時に残酷で、時に慈悲に溢れています。色々なことに飽きました。元来飽きっぽい性分ですが、何か今後の人生に通ずるような体験だと思ったので語りたいと思います。
まず、何かを消費することに飽きました。
有難いことに、現代は娯楽で溢れています。スマホ一つあれば、長い一日を消費するなんて簡単です。サブスクで映画やアニメは見放題。漫画や小説だって読めるし、ゲームだってできる。YouTubeがあるおかげで、TVの電源をつけることはありませんでした。SNSで社会との接点だって作れます。横に寝ているおじいちゃんが一日中クロスワードパズルと睨めっこをしているのを見ると、昔の時代に入院したらもっと暇だっただろうな、と思います。
一方で、まだ自分の知恵を絞れるクロスワードパズルの方が楽しいのかな?と思う瞬間があります。映画も漫画も小説も、極めて受動的なコンテンツです。神様に祈りながら映画を観ても、私が物語の進行に関与することはできない。スポーツ観戦が分かりやすいかも。ああ!ここでシュートを撃った方が良いのに!といくら私が思っても、当事者であるサッカー選手には何の影響もありません。その無力感が、「飽き」に繋がるのだと感じました。
だとすれば、「当事者」になる以外方法はありません。自分が主体になって、手を動かし、世界に関与しようと動くこと。これはおそらく飽きない。狭い病室で身体の自由も奪われている私にできること…それは「文章を書くこと」だと思いました。
花屋目線だと、文章を書くという行為は共通点も多く、そして花では成し得ないことが実現できるという点で補完関係にあると感じます。共通点は「人の心を動かせること」。相違点は「残せるか残せないか」です。
文章は枯れません。極端なことを言えば、死後の世界にも残すことができる。そのスケールの大きさと、圧倒的に当事者として世界と関わることができる方法を自分は持っていることに気づいた時、純粋にワクワクしました。ただ食べて肥えるのではなく、森羅万象を喰らって血肉とし、世に問い発信すること。これはきっと、飽きません。
もう一つ。絶望することに飽きました。
ポジティブシンキングという考え方が昔から好きではなくて、「前向きに考えれば全部変わる!」みたいな思想があまり理解できないんです。「きっと良くなる」と思って良くならなかった場合、悲しみは2倍です。でも予め悲観的だったら?「どうせ良くならない」と思って良くならなかったら「ほらね」ってなるし、良くなったらラッキーと思える。期待値は低い方が良い。
だから、癌になって、苦しく味気ない日々を過ごしながら、絶望していました。こんな人生はクソだと。叶うならば楽に死ねないかなと、嘔吐する度に必ず思っていました。でも、一周回って気づいてしまいました。今、私は癌を患っていて、抗がん剤の副作用が強く出ている。この事実は、絶望しようが、前向きに考えようが、状況は変わらないことに。完治する前提ならば、最低でも半年間の治療分、時間を進めなければならない。
どんな時間を過ごそうが結果に関係しないのであれば、絶望しながら過ごすのはコスパが悪いし飽きます。既に飽きてきています。「陰極めれば、陽極めり」とは友人Sから頂いた金言ですが、状況を少しでも面白く捉え直すことは、なんだか素敵なことだと思いました。
昨夜、恋人とLINEでやり取りをしていると、文体をギャル語にすることで重い雰囲気を回避できるという事に気づきました。そこで、SNSのフォロワーさんからギャル語をご指南頂き、加えて現役JKの妹からの監修も頂きました。今日の気分を書き示して終わります。
※ MK (マジムカつく、の意)
※ピョンピョン (意味不明、の意)
変わらず食べた物は吐くし、副作用は辛い。今日もずっと眠っていた。でも、昨日よりは気分が良かった。一日はとても長いし、明日もきっと退屈だけど、闘病してても面白いなと思える一日であることを、願います。
-次回へ続く-
【悪性リンパ腫・闘病記⑪】推しの看護師の話