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1歳の息子がエビゾリして怒るわけ。


息子とのかかわりで、反省したことがある。

自戒を込めて書き残すとする。



息子、1歳0か月。

家の中のもの、外の景色、どんなものにも興味をもち、自ら活発にかかわっていく。


ある日、家の中ですごしていたときのこと。

息子が、
大きいベッドの上で、ぴったり横付けしてあるベビーベッドの長辺の柵につかまり立ちし、片手で柵をつかんで身体を支え、もう片方の手をベビーベッドの短辺の柵に引っ掛けてあるカゴに手を伸ばして、中の物を物色していた。

(非常にわかりにくい情景かと思いますが、とにかくこのままでは落ちるということです、というかもうほとんど宙に浮いているのをわたしが支えている)


カゴの中には、オムツ替えセットや保湿剤や綿棒や爪やすりなんかが入っている。

地上からだと届かない高さに引っ掛けてあるのだが、こんなアクロバティックな技を披露し、まさか届いてしまうとは…。



そして、綿棒がわんさか入ったケースに手をかけた。


おっと、綿棒ケースひっくり返したら大変だし、もう危ないからと、わたしは息子を抱き上げてカゴから引き離した。



そうしたらば、息子、顔をくしゃっと歪めて、ベッドにエビゾリダイブ。
それはもう、まごうことなき「怒」の感情。

1歳になって、こうやって怒りを表現することが増えた。




なんて、息子がそういう成長過程にいるふうに書いたけれど、今回の件しかり、怒らせているのは実はほとんどわたしなのだ…。

息子が昼寝しているあいだ、このときのことを思い返して考えてみた。



息子がエビゾリするとき。

息子がやりたいこと、触りたいもの、近づきたいところ。
それをわたしの都合で、辞めさせたり取り上げたり離したりしたときだ。


でも、
危ないからなんて心配しているのは、わたし。
綿棒が散乱して大変なのは、わたし。
(言うて大変じゃなかろう)


どちらも「わたしが」なのよ。。
そこに息子の主体性がない。息子の好奇心や気持ちを、置き去りにしてしまっている。


怪我につながらないように気をつけてそばにいればいいし、綿棒ごときあとで片づければいいじゃないの。
息子と一緒に一本一本片付けたら、もしかしたらめちゃくちゃ楽しいかもしれないし。




それでも、辞めさせたり取り上げたり離したりせざるを得ないときがあったら。

わたしの気持ちや理由を説明したか?
息子に伝わったか?
反応を待ったか?
代替案を提案したか?


「お会計するから、いったん預かるね」
「これは口に入れてほしくないものだから、くださいな」
「綿棒ばらばらになったら、お母さん大変なの。ベッドからおりて触ってみようか?」



わたしは、息子に何も説明していなかった。
息子がどう思うかよりも前に、勝手にサッとことを進めてしまっていた。



「怒」の感情がわるいわけでは決してない。
子どもが怒らないように先回りしてご機嫌とりしようという話でもまったくない。

自分の感情を表現し、それを親に否定されることなく、「怒っているのね」「これが嫌だったのね」と受け入れてもらうことを重ねることで、
自分の感情をありのまま見つめて理解すること、どんな自分でも受け入れられる安心感につながっていくと思うから。



でも、子どもの発する怒りが、親の制限によるものだとしたら、それは親が自分の言動を見つめ直す機会だ。

親として子どもにやってほしくないと思う行動のほとんどが、よくよく考えてみると、それほんとうに嫌? ほんとうに大変? ほんとうにやっちゃダメ? 「親として」って誰目線? と思うことばかりだったりする。
わたしのなかの思い込みや固定概念が、制限やルールをつくりだしているのだ。


だから、目の前の息子が発するメッセージは、自分の言動をふりかえるチャンス!

母、成長していくからなっっ。


▼続き…


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