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映画「悪は存在しない」

こんにちは。ぱるむです。
今回は濱口竜介監督の「悪は存在しない」の感想を書いていこうと思います。


長野県、水挽町。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。
しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。(filmarksより)


正義と悪の二項対立はフィクションでれ、ノンフィクションであれ、よく見る構図である。
この映画の正義は水挽町の住民で、悪は自然にグランピング場を造る計画を持ち込んだ東京の人間に思える。
印象的だったのは、東京の人間(高橋、黛)がグランピング場の説明会を開いた場面。
様々な住民が怒りや不満の態度を前面に表す中、主人公の巧はいたって冷静だった。東京の人間に対して決して優しい態度はとらないが、住民に対して全面的に支持するような態度もとらなかった。
一方、東京の人間である高橋と黛も不満を持っていた。
どうして社長が直々に住民へ説明を行わないのか。
どうして我々がこんな遠い田舎へ行き来させられなければいけないのか。
彼ら二人にとっての悪は、会社の指針だった。
それは自分たちが住民のヘイトを向けられることのストレスも大きかったのだろう。
さらに、社長にとっての正義は政府の助成金を貰えることであり、それはグランピング場を建てることであった。

高橋と黛は何度も水挽町を訪れるたびに、村への理解を深めたように見えた。
村は自然と共生していること、自然に生かされていることを学んだ。
二人はこの村にグランピング場を作る計画がうまくいくとは思えなかった。

このあたりから、正義と悪の二項対立が崩れていく。
崩れていくというよりかは、これが本来の姿なのである。
全てのものごとはグラデーションのように移り変わり、白と黒をはっきりと表すことはほぼ不可能である。

高橋と黛は村のことを理解したつもりになった。
村びとに受け入れられたつもりになった。
しかし、何十年もこの水挽町に住む村人にとって、東京の人間としての二人は、ただそれでしかなかった。
私は空気の読めない発言をする高橋に何度も憤慨した。
とくに車中のシーン。鹿の通り道の会話の際、巧が呆れて言葉を発さなくなった。
イライラした手つきで煙草に火をつけるあのシーンは印象的だった。

花ちゃんがどこかに行ってしまった場面で、高橋が騒々しかったために巧が高橋の首を絞めて落とす場面がある。
私はその場面で思わず泣いてしまった。
今まで巧は分かりやすい言葉で説明していた。
村のこと。自然のこと。自分の経験。
決して愛想が良い人間ではない。
けれども、愛想が悪いなりに東京の人間を完全な悪とみなさず、丁寧に接していたのだと思う。
最後の最後で巧が高橋に起こしたアクションが言葉を使わず、暴力で接したという事実に涙が止まらなかった。
言葉にできない、言葉にしても伝わらない。
そんな思いが巧をそうさせたのだろう。
水挽町と東京。あまりにも住む世界が違う。
高橋と黛は知らぬ間に村人たちを見下して、彼らの生活を理解したつもりになっていたのだろう。
「僕たちはグランピング場を建てること、本当は反対なんですよ。村人たちのこと、理解しているんですよ。」
そんな舐めたような態度がにじみ出ていたのだろうか。
花ちゃんと鹿のシーンも印象的だった。
水挽町の近くに住む動物たちにとっての悪は何なのだろうか。

誰しも悪だと思う人間を抱えて生きる。
あんな人間になりたくない。
あの人を見返してやる。
そして、誰しも正義だと思う人間を思い描いている。
こんな人になりたい。
この人についていきたい。
そしてそんな思いを抱えた自分こそ正義だと妄信する。
誰しも自分が一番かわいらしいのだ。

忘れてはいけないことは、自分は誰かにとっての正義であり、誰かにとっての悪である。
私を悪だと思う人間とは一生分かり合うことは無いだろう。
歩み寄るだけ無駄である。
無駄な摩擦や軋轢で自分が削れる。
簡単な二項対立で言うと、
田舎と都会、男と女、学生と社会人、金持ちと貧しい人。
それらはその環境が全く異なっていることから、互いに理解した風を装うことはできても、真の理解には及ばないのである。

本当に好きな映画の1つなので、とてもおすすめします。


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