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どちらの私も採用したときに起こること

自分の中に相反する要素があることに気づく時、なぜか人はどちらか一方を採用して、どちらか一方をないものとして扱うようになってしまう。そのほうが単純だし、「わたしはこういう人だ」と説明しやすいから。

たとえば、わたしの場合

・ひとりが好き

という要素を持っている。

日常の中で、ひとりの時間がないと苦しくなってしまうし、群れで動くのは好きではない。みんな一緒にトイレに行くことはしないし、トイレは自分が行きたいときに行きたい。笑

カフェもひとりで入れるし、ひとりで旅行も行ける。そんなふうに「ひとりが好き」なのだけど、一方で、

・寂しがり屋

という要素もある。ひとり好きの寂しがり屋。

相反するものが自分の中にあるのは、なんとなく気持ち悪い。だから「ひとりが好き」ってことにしておくほうがシンプルで楽なのだけど、時折「寂しがり屋」が顔を出す。

SNSで楽しそうにしている友人たちを見ては「私も誘ってほしかったなあ」などと思ったりする。だけどいざ誘われたら誘われたで、行きたくない(ひとりでいたい)ときもあるから、かなり面倒くさい。


でも「ひとりが好き」と「寂しがり屋」の両方が自分の中にあるのだから、そのどちらをも隠さないようにしている。今は。

以前は、「ひとり好き」を前面に出してばかりで、「寂しい」が言えなかったし「私も行きたい」「誘って」が言えなかった。逆に、誘われたらどんなお誘いにも乗る時期もあって、そのときは、ひとり時間が欲しくても相手に合わせて過ごすことになるから、すごく疲れる。だけど誘われなくなると嫌だから、本心からではない嘘っぱちの笑顔で「また誘ってね」と言うの。


ないものにされた要素はなくなったわけじゃなく、心の奥深くにしまいこまれただけ。自分では隠してるつもりでも、ある日ひょっこり出てきちゃう。たいてい周りの人にはバレてるんだけど、本人だけが気づいてなくて「私、そんな人じゃありませんけど?」てな顔をしてる。

ほんとは「あれ」も「これ」も大切な自分の一部で、両方あっての「わたし」なのだから、どれかを隠したまま、欠けさせたままの自分では心地よく生きられるはずがないのだ。


そんな違和感をどう解放していったらいいんだろう。先日のセッションはそんなテーマだった気がする。分離したものを統合させていくプロセスを伴走させてもらいました。

数秘術は、その人の中にある「相反する要素」をさまざまな角度から眺めることのできるツール。数秘術は初めてだったらしいけれど、ここ数年、がっつり自己探求をしてきた方だから、スルスルと受け取るのが早かった。

「ああ、そういう自分もいるー」
「うわあ、そんな自分がいることを忘れてた」

そんな声も聞こえてきつつの60分間。

終了後「こんな表情だけど、めちゃ自分の中が喜んでる」って感想をくれました。喜びをうまく表現できない、その葛藤、私にもあるからわかるよ!(同じ数字があると、深い共感によって昇華されていくことも多いです)

でもそれだって「クールな自分」と「感動しまくる自分」と「感動をうまく表現できない自分」がいるだけの話で、その都度、出てくる自分が違っていいのです。


相反する自分に気づき、どちらの要素も受け入れていった先に何が起きるのか。それは「どちらでもいい」という自分になれること。たとえばわたしなら「ひとり好き」なわたしでもいいし、「寂しがり屋」のわたしでもいい。どっちでもいいのなら、さまざまな場面で自由な選択ができる。

さらには、相反する自分を受け入れ続けていくと、そもそも「相反する自分なんていないのでは」という感覚が得られるようになっていく。単に、見ている方向が違っただけ、光を当てた側面が違っただけ、そんな感じ。


そしてこの捉え方が自分の中に根付いていくと、子どもの中にある「相反する要素」も、次第にまるっと受け止められるようになっていく。「子どものことを肯定しなければ」「子どもの心を受け止めてあげなければ」と、どこかで習った子育て論に自分を合わせるのではなく、全身で子どもの存在を受け止められる自分になる感じ。

子育ての処方箋にも、それらのヒントを綴ってお届けしています。


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