【海に眠るダイヤモンド】気張って生きた島と人。泥くさく美しい人間賛歌。
TBS10月期日曜ドラマ「海に眠るダイヤモンド」。
最終回。素晴らしかった。美しかった。
ダイナミックな映像、スケール感のある物語、その中でずっと描かれていたのは、誰かが懸命に生きた人生、その暮らし。
「気張って生きたわよ」
いづみさんのその言葉は、これまでどこかで生きていた人、今どこかで生きている人、これからどこかで生きていく人、すべての人への愛情であり、エールであり、「海に眠るダイヤモンド」は、ぎやまんのように澄んで美しく輝いて、端島のように泥臭く力強くたくましい、人間賛歌のような物語だった。
途中、神木隆之介さんのお芝居が素晴らしすぎて第7話の感想記事をアップしてしまいましたが、最終話まで観終えた感想をここに。
はあ。ロスです。すべてを知った上でもう一度第一話から観てみたいな。
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名台詞集
第7話感想
▼興奮のあまりフライングアップしてしまった第7話の感想です(笑)
描かれたのは、ただそこに生きる人たち
過去と現在。端島と東京。
二つの時代と二つの場所が交互に描かれ、その繋がりがあるのかないのか、あるならどのようなものなのか、少しずつ明らかになっていく事実とよぎるさまざまな可能性に、ハラハラしたりわくわくしたりしながら夢中になる、そんな物語だった。
日曜劇場で、このスケール感で、このチームで、おそらく愛と家族の物語。
時を超えた人のつながりや愛情、歴史に隠された事実、ひいては今の時代との対比や何かメッセージ的なもの、そういうものがきっと描かれる壮大な作品になるのだろう。
視聴前の私はそう思っていたし、確かにそういう側面もあったのだけれど、実際この作品で描かれていたのは、終始、驚くほどシンプルなこと、ただ"そこ"に生きる人たちの人生、暮らしだった。
生きて、食べて、働いて、恋をして、暮らす。
ただそれだけなのに、愛おしくて。
遠い場所での知らない時代の知らない人たちの人生なのに、胸が熱くなった。
産業革命遺産とも呼ばれる軍艦島-端島にも、そこで生きていた人にとっては、遺産でもなんでもなくただの居場所で、生活で、ふるさとで、人生で。
そこに生きた人を、ただシンプルに描く。
これほどのスケール感をもたせながらも、ずっとそこを軸にした地に足のついた物語だったからこそ、いつの間にか端島は私たちに身近な場所になって、いつの間にかそこに生きた人々を私たちは知っているような気持ちになった。
気付けば端島の物語は遠い場所の知らない人の物語ではなく、今の私たちにもつながりうる営みなのかもしれないと思えた。
どこか不思議で、とてもあたたかい、そんな心地の良い余韻を残してくれた。
気張って生きる
いづみと朝子が端島の地で向かい合い、いづみがかつての自分である朝子に言った、「朝子はね、気張って生きたわよ」。
端島が見える庭に咲き乱れたコスモスも、そこで流れた主題歌も、賢将のてっけん団宣言も、鉄平のプロポーズも素晴らしかったけれど、私にはこの台詞がとても印象的で、思わず涙が溢れたし、今もずっと心の中で反芻している。
端島に生きて、端島しか知らなかったあの日の朝子。
端島でずっと鉄平と生きていく、そう思っていたであろう朝子の人生は、鉄平がいなくなってしまったあの日を境に、風向きを、潮の流れを、明確に変えた。
新しい家族を築き、閉山した端島から東京へと移り、今現在のいづみが成し遂げ築き上げてきたものを見れば、朝子、つまりはいづみの人生がどれほど激動だったのか、その人生をどれほど懸命に生き抜いてきたのかが伝わってくる。
いづみが正体を打ち明けた澤田に言った「あなたに罪なんてない。進平兄ちゃんと、リナさんと、誠。あなたたちがいたから、この家族に会えた。あなたが、生きてて、また会えて、よかった。」の台詞にもある通り、いづみにとって、鉄平と離れてからこれまで生きてきた人生は、誇れるもので、懸命に生きてきた足跡であり、そこに嘘はないはず。
鉄平と二人で生きる未来は、"あったかもしれない"人生。
それなのに、あの日端島に置いてきたものが、今もそのまま端島に置き去りにしたままだから、もしもうっかり蓋を開けてしまえば、感情が溢れて、"失った人生"だと思ってしまう自分を突きつけられてしまうかもしれない。
思い通りにならなかろうが生きていかなければならないこの人生を懸命に生きて行くために、蓋をして、置いてきて、背を向けてきたもの。
玲央との出会いによりそれと再び向き合うこととなったいづみが、最後にもう一度鉄平と出会い直し、端島と端島に置いてきたものを「たいしたことないじゃない」と笑い飛ばせたこと、そして、"失った"のではなく"あったかもしれない"未来を、微笑みながら端島でその目に見ることが出来た。
そんないづみが、かつての自分である朝子に言った、「朝子はね、気張っていきたわよ」。
自分の人生を本当の意味で受け入れることが出来て、あの日の自分を心から抱きしめることが出来て、あの頃端島で一緒に生きた人たち、愛した人の存在を、たしかに自分の中に感じることが出来た、だからこそ言えたこの言葉の清々しさと、美しさと、たくましさに、思わず涙がこぼれた。
鉄平も、百合子も、賢将も、リナも、一平も、進平も、誠も、みんなそう。
みんな、端島で生きていた頃も、端島から移った場所で生きていた日々も、ただただひたすらに、それぞれの人生を懸命に生きていた。
みんな、気張って、自分の人生を懸命に生きていた。
ただそれだけのこと。でもそのそれだけのことが、人生の全部。
いつか誰かが振り返ればそれは語られる歴史になるのかもしれないけれど、その人にとっては、それしかない一度きりの人生をただ必死に生きていただけ。
生きる理由を見出したり見失ったり、どこに向かうのかわからないまま逃げたり隠れたり、間違えたり、躓いたり、傷ついたり傷つけたりしながら、ただ必死に、気張って生きること。
その人生が、そうやって生きたその人が、今回玲央が鉄平や端島を見つけたように、誰かに見つかって、つながって、続いていく。
だとしたら、今の私たちの日々のありふれた営みのひとつひとつだって、いつかどこかの誰かにとつながって息づいていくものかもしれない。
歴史に名を残すようなことを成し遂げなくとも、ひとりひとりがただ気張って生きること、それが、どこかで誰かにきっとつながっていく。
「気張って生きたわよ」
その言葉は、これまでどこかで生きていた人、今どこかで生きている人、これからどこかで生きていく人、すべての人への愛情であり、エールのように響いた。
「海に眠るダイヤモンド」は、ぎやまんのように澄んで美しく輝いて、端島のように泥臭く力強くたくましい、人間賛歌のような物語だった。
一島一家
「一島一家」。
端島を舞台に何度か登場したワード。
あの時代のあの勢いのあった端島は、一島一家、住民みんなが団結して、時代を支えるエネルギーを掘り起こしていった。
けれど、端島に住む人々は、ただただ呑気に仲良く良いことばかりを享受して暮らしていたわけではもちろんなくて。
戦争、宗教、立場、経験、そこにはさまざまな分断があって、数えきれないほどの衝突があって、それでも、それぞれが懸命に生きる上で寄り添い合い、声を掛け合い、支え合って進んでいた。
閉鎖的な空間で、異質な文化や風土がそこにあって、どこにも行けないし、どこにも帰れない、そんな窮屈さがいつも各々に漂っていたのだと思う。
この作品を視聴した程度で理解したつもりになんてなれないけれど、ほんの少しそこでの暮らしを垣間見ただけでも、それぞれがそれぞれの立場でいろいろな想いを抱え、傷を背負って、それでもなんとか生きていたこと、暮らしていたこと、そんな泥くささやたくましさ、人間のエネルギーや息遣いが画面を越えて伝わってくるようだった。
遠い昔の、知らない場所の、歴史上に生きた人たちの物語。
そんな風に思ってしまうようなところにも、人がいて、暮らしがあって、人生があって、物語がある。
目に見えないから、形に残らないから、直接知らないから、私たちにとってはどうしても他人事で、きっかけがなければ無関心のまま遠いものにしてしまうけれど、現代を生きる玲央が、朝子の中に生きる外勤さんだった鉄平に声をかけられたことで鉄平や端島と出会ったように、今まであった全部がきっと繋がって続いていて、今ある全部が、きっとこの先に繋がり続いていく。
この作品を観た私たちが、きっともうあの島を「軍艦島」よりも「端島」と呼んでしまうほど身近に感じてしまっていることだって、その証だと思う。
「どうしたの?元気ないね。」
あの頃端島で外勤さんとして働いた鉄平が、そうやって島民たちに声をかけて繋がり合っていたように。
あの日いづみが玲央に、声をかけたように。
近くの人、通りすがる人、気になった人に、「どうしたの?元気ないね。」と声をかけること。
いや、声をかけなくたっていい。
気に掛けるだけでも、大げさじゃなく世界が変わったり、誰かの人生が動いたりするきっかけになる。
あの日、石炭の上に浮かんだ端島がそうであったように、海に浮かぶこの日本という列島も、そしてこの地球に浮かんで生きている世界中の人たちも、そんな些細な声かけで、想い合いで、共に生きていける一島一家なのかもしれない。
私たちは皆、海に眠るダイヤモンドで、私たちの中にあるすべてで、繋がっている。
とても壮大なメッセージなのに、三ヶ月間観続けてきたからこそ、それがストンと心に落ちる。
なんだか安心出来て、今までと今を肯定して、これからに前を向くことが出来る。
そんな美しいエンディングが、本当に素晴らしかった。
約束のコスモス
鉄平。
あの日を境に思わぬ方向へと動き出してしまった人生、追われて逃げて、なんとか辿り着いた最後の場所でほんの少しだけ鉄平として平穏に過ごすことが出来た暮らしの中で、端島が見える庭に、朝子との約束のコスモスを植えた鉄平。
鉄平が不幸だったのか幸せだったのかなんて、私たちには知る由もないのだけれど、もしかしたらリナのように、新聞やニュースで朝子の活躍を知っていたかもしれない鉄平は、端島にいた頃と何も変わらず、ただひたすらに朝子の幸せと安全だけを願っていたのではないかと思う。
「俺はその、気が長い。朝子と一緒に、いつまでも、いつでも端島にいるし、だから、ゆっくり長い目で、見て欲しい。」
あの日もっと強引に結婚を進めてしまっていればもっと別の人生が…なんて、色々とあげればキリがないほどに不器用で初々しかった鉄平と朝子だけれど、鉄平はあの時から何も変わらず、朝子の人生をリスペクトし、いつまでも端島のそばで、朝子を想っていたんだろう。
俺がいようがいなかろうが、朝子が幸せに生きていてくれるなら、それでよかったんだろう。
鉄平が見ていた満開のコスモスの向こうに浮かぶ端島の景色を、時を経ていづみが見つけることが出来た時、いづみにとって鉄平は、「突然消えてしまった愛した人」ではなく、「心を通わせて共に気張って生きてきた人」になれたんじゃないかと思う。
みんな、よく頑張った。
頑張って、生きた。
「誰もいなくなったけど、あるわ。ここに。私の中に、みんな眠ってる。」
いづみのこの言葉に、全部ある。
それが救いだったし、玲央という人を通してそれが今に、そしてこれからに続いていくことを感じられる、希望に満ちたエンディングだった。
「端島は死んだ」
閉山が決まった頃、あの島に生きた人たちはそう口にした。
その頃のその島を直接知らない私たちも、この物語を観るまでは、「終わった島」、どこかでそんな風に思っていたように思う。
けれど端島は、エネルギー転換の中で役目を果たして閉山をした土地であって、死んだ島なんかじゃない、立派に生き終えた島だった。
端島という島もまた、気張って生きて、生き抜いたんだな。
植物の死骸が石炭になってあの日の端島を輝かせ日本を支えたように、どんなものだってきっと何かに繋がり輝く時がくる。
ずっとその輝きをもちながら、今もどこかで眠っている。
目に見えなくても手で触れられなくても、ちゃんとある。
「海に眠るダイヤモンド」。
ダイナミックな風景と息遣いが伝わってくるかのようなお芝居、映像、シンプルに胸を打つ人の生き様。
今年の終わりにこんな素晴らしい作品を観ることが出来て、感謝です。