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日記。 これからの生き方について、はじめて真剣に考えた。
アーユルヴェーダ的にカパ(水や土)の占める割合の多い体質のわたし。
ほっとくとどんどん沈殿して濁っていくので、日常の中で動きや熱を入れてあげるとバランスが取れて気持ちよく過ごせる。
カパ子はあんまり寝るの良くない。
よく眠れる体質だけど、ほっといたらずっと寝てる。それで寝過ぎちゃうともっとカパが増える(増悪する)から、ちょっと頑張ってなるべく起きておくぐらいがいい。そうすると心身の重さ、だるさ、精神のネガティビティとかのカパ多すぎで起こる問題が緩和される。
というわけで、インドにいる間と帰国してから、早寝早起きを頑張っています。
早寝早起き、良い食事、運動、睡眠が
結局有機体でありナマモノである人間の身体には何よりも大事で
未病の不調も、病気になるのも、心が病むのも、ここが崩れるとこからはじまるわけで。
心身の健康の為に瞑想とかヨガとかやるよりこっち最優先にしてまず動かなきゃならん。
というのを身をもって実感した今回の旅でした。
カパ子、早起き苦手だが、これからは命をかけて、全身全霊で早寝早起きに挑もうと思っております。
というわけで今日も無理やり起きて←
毎朝のルーティンであるプラーナヤーマと瞑想とアーサナプラクティスをして、マサラチャイを入れて美味しいヴィーガンマフィンを食べて、だいぶゴキゲンなスタート。
ついこの間大学を卒業して、「大学生です!」と自己紹介ができなくなった。
大学生って、めっちゃ気楽な肩書きだったな…
大学生じゃなくなった今、わたしは誰で、これから何をして生きていきたいんだろう?と疑問を持つようになってきた。(やっと)
小学校から数えて16年間、学生として生きてきて、それが終わった時に
人生において「やらなきゃいけないこと」が同時に無くなってしまった。
日本国民として、学生は教育を受けて学業に励むことが義務。
その立場でいること「やらなきゃいけないこと」をこなしていくことが当たり前になっていて、生きている意義のようになっていた。
大学にいるとシュウカツというのがまるで全員強制のように勧められていて
みんながそれに向かって変貌していく姿を横で見ていた。
「社会用」の自分、社会に評価されるための自分を仕立てて本当の自分の姿は隠さなきゃいけなくなってどんどん苦しそうになっていく。
いや、たぶん本当はみんなだってやりたくないんだよ。笑 それ以外の道がわからないだけで。
最初の頃はわたしも「卒業したらどこかに勤めて働かなきゃ、そのために勤め先をまず見つけなきゃ」と勝手に思考がインストールされていたんだけど
よくよく考えたらわたし、これやりたくないってことが沢山わかってきて
「やりたくない」と言えるようになった。
面接とか受けたくない
会社で働きたくない
通勤電車に乗りたくない
ずっと椅子に座っていたくない
時間と場所に縛られたくない
自分の人生に関係のない、情熱を持てない業務の日々をしたくない
えらそうなおじさんの話聞いてあげたくない
…
会社の面接なんて気持ち悪くて私には無理そうだもん。
そこで評価されることって、どれだけ優秀な成績を収めたとか、ボランティアやアルバイトをどれだけやったとか、グループのリーダーとして人をまとめたとか
なんかそれって頑張ってばかりでいやだ。
「何を頑張ったか」しか聞かれない。
わたしは頑張ることばかりが評価される社会に身を置きたくない。
だって頑張ることは人生の本質じゃない。
頑張る理由は熱を入れて変化を生み出すことでしょ。
それならヨーガと一緒で力を抜いて、一番リラックスした状態で、深く呼吸して最小限のエネルギーを使ってやる方が近道だって知ってる。
労働力としてただがむしゃらに出力させる今の社会のシステムはエネルギーの浪費で自己破壊的だ。本当の意味でサステイナブルじゃないから、そんなものもうそろそろ前の時代に置いてきた方がよさそうだけど。
自己分析だってめっちゃさせられたけど
それだって他者との比較で生まれる社会生産性からみた自分の良いところと悪いところをみつけていくでしょ?長所とか短所とか、こんな性格でとか、それって誰にとってなわけ。
そんなんではveda的な真の自己はわからないよ‼️自分のボディとマインドは本当の自分ではない、わたしとは肉体が去ろうとも、何があっても在り続ける不変のアートマンである、ということがわからないよ‼️
って感じで、わたしは早々にシュウカツへの興味がなくなった。
わたしが身を置くヨーガや瞑想の界隈は大体わたしより年上だけど、
みんな会社で働いて頑張りすぎて体や心を壊して、ヨーガや瞑想に出逢う。
もはやプロフィールの基本テンプレ。
そのタイミングで救われてもっと追求したくなって
イントラとしてのキャリアが始まるわけだけど
おい、ニュージェネレーション、そうなる前から瞑想やってこーよ!
もっと好きなこと、楽しいことに気づいて人生を過ごしていこうよ。
やりたいこと好きなこと本当はあるってわかってるのに、オトナたちの「頑張れ」に惑わされている場合ではないよ、ほんとに。
で、きっとその好きなことは仕事になるんよね。
ありがたいご縁で、周りに面白い働き方をしているオトナたちが山ほどいる。
その人たちをみて「好きなことで働いて楽しく生きていくことは可能だ」って確信した。
ありがとう、素敵オトナたち…めちゃくちゃ尊敬してます。
好きなことを仕事にして生きている人たちは本当に毎日楽しそうで幸せそう。自分が何で幸せを得られるかわかっているし、そこにコミットしているから忙しくなっても幸せなんだもん。
じゃあわたしは、他になんで「働かなきゃいけない」と思ってるのかって
よくよく考えてみると
「お金を得るため」だけになったわけだけど
そのお金は何のために欲しいかっていったら
「幸せになるため」でしかなかった(当社調べ。)
だけどどうやら、お金を得るのは働かなくてもできそうだ。
調べてみると、生活保護の支援で
都内23区でまあまあいいとこに住んでても
家賃と生活費を行政が出してくれる分でカバーできる。
交通費や国民保険料も場合によって免除。病院も行ける。
就労支援はあったりするけれど、労働が必須条件ではない。
ってことは最悪、生活保護を受ければまったく働かなくても生きていけるわけだ!
(ええ、生活保護・・・?という抵抗もわかるけどこういう国が作ってる制度とかいざという時どんどん使った方が良いと思った)
っていうことで、働かなくてもお金は手に入る。つまり
生きていけることがわかった。
お金の心配、不安、食べられないという恐れが一応ここで不要になったので
お金を得るために働くという概念がなくなってしまった。
ここにきて、働くの意味を今まで完全に見失ってたと知る。
やっぱりどこかで、わたしにとっての「やらなきゃいけないこと」になってたわけだ。働かなきゃいけないっておもってた。
でもそうじゃないってわかったときに
「やらなきゃいけないこと」が無くなって「やりたいこと」をしていく人生がこれから始まるんだって気づいて。
※いやもちろんこれまでもやりたいこと散々してきたけど、場所的にやらなきゃいけないことの枠の中にいたわけです。というか、いつも全てが恐れとか不安とかと結びついて、それを回避できる選択肢としての「やりたいこと」だった。魂が真から望んでいるものじゃなかった。
それがぜんぶ外れて、まあもし仮に将来への不安や恐れが全くない世界だったとして、今が満ち足りていると思えるようになってきて
さらにこれからの人生でなんっっっでもできるとして
今世一回切り、死ぬまでになにがしたい?
ああ、意外と、全くそこまで考えてなかったんだな。
やりたくないことは沢山わかったけど。
あたしはこれがやりたい!って魂が熱望することって何なんだろう。
完全に身も心も自由な状態で、今、わたしは何がしたいんだろう??!
それでも働きたいとして、それは何故だろう。働くことの意味ってなんだろう。
この世界にどんな熱を生み出して、どんな変化を起こしたいんだろう。
で、それを現実レベルで考えたときに、あたしは生き方のデザインを緻密にやってった方が良いんだと思った。
ライフスタイル、朝何時に起きて夜何時に寝る。
いつだれになにを与える。