翻訳とAIと仕事と趣味と【某講演会の感想】
少し前になりますが、著名な文芸翻訳家S先生の講演と朗読の会に参加してみました。
ご本人は出で立ちも話し方も飄々としていて、演出かもしれませんが「ふつうの小父さん」感にあふれていました。そして、朗読のときの重く鋭く迫ってくる凄まじいパワーとのギャップが印象的でした。
楽しいイベントでしたが、質疑応答のさいに思わず「えっ?」とつぶやいてしまったことがふたつあります。以下、「」は大意です。
ひとつめは、先生ご自身も「必ず聞かれるんですよ、まいったな~」という、AI問題。
質問者「将棋の名人でさえAIで練習します。まして芸術ごときがAIに勝てるわけがないでしょう」。
S先生「そうですね。これからの翻訳者は大変だと思います。自分はもう年なので引退です。いい時代に生きられてよかったです(テヘッ)」(会場笑)
質問者の「芸術ごとき」という言い方が気になりましたが、S先生のお答えは一般的な「AI万能」説を前提とした以上のものではありませんでした。地域図書館主催(無料)で一般人が集う会ですから、深掘りして持論を展開するまでもないし、時間もない、と判断されたのだと思いたいです。
あらゆる人間の仕事がAIに取って代わられる。今後消滅する仕事も多い――こういう予言で盛り上がるより、AI活用における倫理・環境的問題についての言論界の議論こそを一般人にもっとわかりやすく公開してほしいものです。そうでなければ、この質問者のように競技と芸術とをAIという御旗のもとでまとめて捉える人間も増え続けるでしょう。
たとえば、先日逝去された谷川俊太郎さんを惜しむ人は多いはず。もっと彼の詩を読みたかった、と。だからといってAIが谷川俊太郎になれるかといえば違います。彼の芸術は文字や声という媒体で表される「詩」そのものだけにとどまらないからです。谷川俊太郎という存在そのものが芸術なのであり、「芸術ごとき」だからといって、AIによって再現できるものではありません。逆にいえば、再現できるものは芸術とは呼べません。
ともあれ万年駆け出し翻訳屋のわたしは、S先生のお答えに「見捨てられた」と悲壮な気持になりました。鴻巣訳、岸本訳、巖谷訳、斎藤訳‥‥彼らの真似が完璧にできるAIがあったとしても、それは、百貨店で桐のお箸を買うよりも、それに似た100均のお箸で良しとするのに似ています。人の手で作った純正なものの価値が忘れられていくのと似ています。
(技術についての考察といえば、いまユク・ホイの『中国における技術への問い 宇宙技芸試論』を読んでいるところです。難解ながら、東洋と西洋の融合と中国を中心にした技術の概念の問いが展開されてい(るらしく)て魅了されます)
もうひとつ印象に残った話は、翻訳する本はどのように選びますか、という質問に対するS先生のお答えでした。
S先生は、「ありがたいことに大学教授の仕事があったので、翻訳は副業ってか趣味です。だから好きなものを訳している。考え込まずに楽しく読める作品。そう、ぼくにとってはわかりやすい作品が多いですね。つまり簡単な本ばかりです!子どものころからマンガしか読んでなかったしぃ」(会場大爆笑)
簡単な本ばかりというのは誇張だと思いますが、「趣味」だからこそ制約なく世界観を追求できたということでしょう。
古今東西、文芸や芸術、おそらく科学でさえも、おもに経済的基盤がある人びとの活躍によって発展してきました。古代ギリシャのアテネで哲学が花開いたのは、奴隷(と女)が労働を担っていたからですし。いまだにそれと似た状況です。それが芸術の成り立ちの本質でもあります。
また、大学教授になるほどであれば本人だけでなく数世代かけて注ぎ込んだリソースは莫大なはず。偉大な文化はやはり金持ちによって継承されるのか…。
そして、このざっくばらんな先生のお答えに、再び「見捨てられた」とうなだれるわたしは、仕事と生活でいっぱいいっぱいの零細翻訳者なのでした。
S先生のおとぼけかつ天衣無縫なお姿は、ご著書で垣間見える人物像そのもので、ますますファンになりました。しかしほんとうのところ海千山千の強者のはず。ある程度面白小父さんを演じていらっしゃるのかもしれません。じつのところは誰にもわかりません。聴衆のリテラシーも時間も限られたあの空間でしたし。
いろいろ考えましたが、答えが出るわけもなく、とりあえず、これからも読み書き訳していきます。それしかできないので。
おもわず愚痴がはいってしまいましたが、最後まで読んでくださってありがとうございます。