文章を書くこととは
「文章を書くこととはなにか?」と、なんとなく問うてみる。
この答えは人によって違うはずだし、また、わたし自身、時期によって大きく異なる答えをイメージとして持ちながら文章を書いてきたと思う。そもそも、こんな抽象的な問い、なんとでも答えられるではないか、問い自体がクダラナイ、と思うこともあった。
試しに答えてみよう。
文章を書くこととは……
・自分の思考という牢獄から脱出を試みることである
・何者かになる行為である
・自分自身との長電話である
いきなり面倒くさいアイデアばかり出てきた。隠喩的であり、これぞ「なんとでも言える」部類の回答だろう。なにか上手いことを言おうとしているというか、いかに面白いことを言うかを競っているというか。そんな感じの系統の答え。
今回わたしがこの記事を書いているのは、そんな系統の答えを言うためでは、実はない。今回は、もっと実用的な観点から、より良い文章を書くことの本質とも言うべき着眼点を見抜こうという試みなのだ。
「文章を書くこととはなにか?」この問いにどう答えるかーーあるいは、正面からは答えず、無視したり、はぐらかしたりするのか。そういうのも全てひっくるめてーーに、その人がどんな人物かが表れるだろう。どんな感覚の持ち主か、どんな性格か、どんな経験を積んできたか、寛容か、怒りっぽいか、ひねくれているか、素直か、自己顕示欲が強いか、控えめか。他のあらゆる質問と同様に、回答者の「人間」が表れる質問に相違ない(大げさか)。
回答者の実力が表れるという、冷徹で身もふたもない言い方を上手いこと避けたところでーー本当は、言いたかったのはそこだーー、では、わたしが今回この問いに用意した答えを述べてみたい。
その前に、私事なのだが、哲学に凝ったわたしは「どんな文章も『自分語り』な文章に見える」という偏屈な感覚に悩まされていたという事情があった。「自分語り」な文章とは、普通、文章の筆者が自身の個人的な考えや感覚、感想や意見を、客観的な読者の目線を顧みずに、勝手気ままなペースで書き綴ったような文章のこと指すと思う。大勢の人が見ているコメント欄でいきなり「あれは良い、これはダメ」などと持論を展開し始める文章などがよく「自分語り」だと言われる。
わたしは哲学の難解な原典(の翻訳書)を見て「これだって『自分語り』ではないか」と息巻いて悦に入っていたのだろう。また、客観的な目線を強く意識して書かれた「いわゆる記事」のような文章についても、「大勢の一般読者に向けて文章を書くというのもひとつの考えにすぎず、その筆者の主観的な価値観であることには変わりがない」とかなんとか(心の中で)主張し、世の文章の全てに「自分語り」の烙印を押していたのだった。同時に、本心から「『自分語り』でない文章とはどんな文章だろう?」と本気で疑問に思い、混乱していた。どんな文章を書けばいいのか、実際にわからないでいたのだった。
ここで、文章の類型として、二つの極端を提示したい。自分の考えをそのままの生(ナマ)の形で書く文章と、客観的な目線を最重視して書く文章の二つだ。前者は、先のいわゆる「自分語り」であり、日記のような文章である。後者は、記事などの商業的なものに多いタイプの文章。
さて、いよいよ私の答えを書く段だ。文章を書くこととは、自分の生(ナマ)のままの言葉と客観的な言葉の“間(あいだ)を行く”ことである。これが、現時点のわたしの答えだ。
間とは、ちょうど中間という意味ではない。間を、どの程度のさじ加減で進むか、そこが腕の見せ所であり、作文の面白味である。そして、なにより、自分の考えをそのままの形で書くのでも、客観的な正解を書くのでも、そのどちらでもないところがミソである。どちらもやらないのである。誤解を恐れずに言うならば、それらはどちらもツマラナイのである。
そうではないだろうか?わたしは先日、ふと、そう思ったのだ。思いついたばかりの考えだ。
自分の生(ナマ)の言葉をそのまま書き連ねた日記調の文章は、noteでよく見かけるし、わたし自身よく書いている。しかし、そんな文章は、自分が書いたものであれ、他人が書いたものであれ、どこか「空を切る」ような、つまり空振りな、暖簾に腕押しな印象が、なんとなくだが、ある。そういった文章は往々にして、「遠慮のない文章」に陥るという問題を不器用にも抱え込んでいるように見える。無邪気に素を出しすぎるのだ。
しかし、他方で、あまりに分をわきまえた、あるいは誰もが共感しそうなことしか言わない、めかしこんだよそ行きの文章も、ありきたりで退屈だと思う。わたしは、そう思う。そこで、先の「間を行く」案に到達したのだった。「間を行く」ことは、当然のことだろうか?客観性をしっかり備えて書くのではなく、「客観性を少し捨てる」意識を持って書いているだろうか?同時に、「自分の意見を少し捨てる」意識でも書いているのだろうか?「自分語り」の常習者であるわたしからすると、自分の意見を半ば他人事のように書くのはつらいことでもある。誰にへつらってものを書いているのだろうという意識も、もとよりあったであろうし。
「自分語り」を少しやめて、客観的な目線を少し取り入れるのはなぜか。それは、読者に読んで欲しいから、というよりもむしろーー白状してしまえば、読者を説得しにかかっているからだろう。「自分語り」は読まれない覚悟で書くものであるのに対し、説得とは相手を自分の思い通りに動かそうという無茶を試みる古典的な弁論術の類であり、つまり、自分の利益が目的である。そう考えると、あの社会性のない「自分語り」の徒が、子供のように純粋無垢であり、他人に根回しするしたたかさを持ち合わせないか弱い存在であることが改めて思われる。もっと読者の意見を汲めば、自分の意見が通りやすくなるというのに。
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文章とは、迷いの森である。読者を取って喰うための罠である。そんな文章は、そんな文章であるほど、読者の目に優しく、良識を以って読みやすく書かれており、分別があるかのように振る舞って読者をたらしこむ。読者は「この文章なら共感できる。この文章なら納得できる」と”思い込まされる“のである。しかし、その実、その語り手が読者を連れ込もうとしている結論は、結局は作者の個人的な考えにすぎないのだ。それは、客観性の皮を被った「自分語り」に他ならない。「自分語り」を「自分語り」に見せずに書くことこそが、文章を書くことである。
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