文体計画(グレードアップ案)
<これまでの反省点>
・批判することなく、積極的に価値を生み出したい。
・語り手が偉そうな態度を取ってしまう問題をどう解決するか。解決できるのか。
***
文章は、どんな人生観や態度も表すことができるという気が、なぜか急にしてきた。新しい文体が予感されてきた。
文章がなにかを断定することは、言ってしまえば、避けられない。そしてそのことは、僕がこれまで思っていたほど致命的な問題ではないように思われてきた。
僕が以前した考察で、物申してなんかいないで「さりげない記述」を連ねることで偉そうな態度は緩和できるとか言った気がする。(しかし、そのときはそれを自分でやる気はないみたいな感じだったのかな)。
で、いま、なんか急に、文体に関して、新しいビジョンが見えてきたような気がする。今回は雑談風ですけど、そのことはちょっと置いておいて、
さりげない記述(=物々しくない物言い、言い方)をやっぱり抜け目なく選び、そして、その上で、ーーもちろんそれでも根本的には断定することを避けられないのだが、そのことは実は僕がこれまでずっと思っていたほどには問題でないかもしれなくーー批判的な内容を基本的に採用せずに、着目点の積極的な創出のみで文章を構成すれば、それで良さそうだと思えてきた。
批判的内容は、仮に採用する場合は、声高に主張せず、また、冷笑も困惑も含めず、「妥協」の表情(口調、意味合い)で「◯◯するわけにもいかないしな〜」と軽めに表現するのを限度とすることで、大人の落ち着きある分別を表現できると見たw
これいい案な気がする。
で、肝心のメインコンテンツの「着目点の積極的な創出」はたった今もこうしてやっていることだし、これまでもやっていたはずだし、そもそも多かれ少なかれみんなが当然やっているものだ。これは、ある意味で「消極的な批判」とでも言ったものだと思う。積極的に批判するのとは違い、代替案とか、価値観とかを、自分からまあ積極的に示すことで、“あくまでも間接的に”「あなたとは違う考え方をしている」「あなたとは違う態度を取る」ということが表現できる、表現していることになるのではないかな。そんなことは当然なのかもしれないが、なんでこれをわざわざ今さらこうやって自分に言っているかというと、これまでの僕の語調の強い批判的文章は、他人の偉そうな(ないしは、声高な)主張・文章を目撃した時、“自分も同じようにそうすることでしかリアクションできない”と感じていたために生み出されていたものに思うからだ。リアクションしようとしたら、自分もそれをする以外に選択肢を見つけられないでいた。多少大げさに例えると、いじめられないためには自分がいじめっ子になるしかない、とでもいった感覚だ。でも、そうでない道をいま見つけつつある。冷静に語ってやればいい。しかも、直接の反論という形を取らないことができる。なぜなら「積極的な着目点の創出」ばかりでもっぱら文章を構成することにするからだ。だから、なにか反論したい記事を目撃した際も、その話題を必ずしも直接出すことなく、代替案やそれに類するものを示すだけのことにとどめ、直接対決という形を取らないことで、他人の影響を受けてしまって怒(いか)ってる風な内容にしないことができる。
まあ、怒ったときは、怒った表現をしてもいいと思う...。ネガティブなことは言うべきではないっていうのは、基本としてはそうだけど、行き過ぎるとやっぱ抑圧しちゃうし、ある程度の喜怒哀楽は出しちゃっていい、出した方がむしろいいんじゃないかとさえ思ってます。(周囲を)ちょっと振り回しちゃえ(w...)。うん。ひどい思考の持ち主。
<まとめ>これから僕が作りたい文章の内容(価値)の二大要素が、一つは大人しい語り(態度)のうちで主張していく(主張自体はバリバリしていくのがミソ)という性質で、もう一つは着目点の積極的な創出のみで構成し、「消極的に批判する」にとどめる点。(僕が批判したくてウズウズしてる点は、自分自身でも特に否定しないでおく。そういうところも内面的にはのさばらせておく)。のさばらせると言っても、表では直接の批判の形を取らないから、表現として鼻に付くものではなく読み心地の良いものになる気がするし、口調も穏やかに行くし、と。
まとめの段落のはずが、また長くなってしまった。と、文章の適当さに関しては健在。まあ、今回は雑談回だから...!
いままでは、物静かに主張してる語り手のことも、「表面は一見物静かだが、十分我が物顔で語ってるじゃないか。偉そうに。上辺の慇懃さがかえってウゼェわ」とか思い、そしてそう言ってしまっていたんだけど、それは単に(その時僕が目撃した)その文章が悪いだけで、「偉そうにならずに主張できる」ビジョンが見えてきたように思う。それが、上で言ってきたことだ。内容と口調の両面から工夫されていて、内容に関しては、直接の批判をしない・声高系の方向の記述をしないというか、「声高でない内容(書き方)のみを選ぶ」。声高なものは、文章の構成部分・内容として全部不採用。それが、以前の自分の言葉で言うところの「さりげない記述ばかりを連ねてく」ことなのではあろう。だから、要はそれを本格的にやっていくということだ。
今回はまさにその方向で文章を作ってみた。結構手応えを感じるかも。僕の以前のエッセイ記事『【閲覧微注意】自分のための文章講座』や『偉大な日記』とえらい違いがあると自分では思う。傍目にはどうなんでしょう。あまり変わらないのかな。これがもし成功しているのだとしたら、それは正当進化と言っていいのではないかな。人格面、精神性(成熟さとか、そんなもの)、そして人気取り。人気取りと言ってしまう。そういった点に関する演出ですね。そう、演出にすぎません。ていの良いフェイクです。中身はカスです。...。やっぱ嘘です。中身も最高です。......。
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