詩にはアホであって欲しい

詩は言葉の遊びでしょう。

僕はあんまり叙情的なものに興味がありません。どちらかというと「おかしなこと」を言いにいきたい。お笑いのボケにも通ずるものというか。

だから、詩を読んで「美しい」とか「感動した」とか、そういうんじゃありません。「またバカなこと言い始めたぞ」と思われたい。

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詩の醍醐味に「基本単語を使う」というものがあると思っています。

夜、塔、森、世界、風、君、城、城壁、魔女

などです。

基本単語を使えば、その分内容は普遍的になり、大胆で人目を引き、訴求力のあるものになるでしょう。「大胆」と言いましたが、それは「臆面のなさ」と表裏一体かもしれません。人のそういう“愚かしい態度”を表すのに、詩はうってつけの土俵だと思います。

西洋の城塞などを表現したいと思った時、その時代背景や世界の事情をあまり知らないから自分は満足に描写しきれないだろう、だなんて思うこと(必要)もないと思っています。

そういう判断も、確かにあると思います。まともな判断とも思います。

でも、僕は大胆に「世界が云々」「風が」「城が」と使っちゃいます。たった一つの単語で、他に詳細な描写なんかなくても、簡単にその世界を記述できてしまう。そんな風に思っています。思うことにしました。厚顔です。

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一種の荒唐無稽であることにも違いありません。

それでいい、ということです。マトモなことを言わなきゃいけない、みたいな約束事、どこにもありませんから。え、あるんですか? へえ。つまらないですね、アナタの世界は。

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具体性に乏しいなどの意味で、描写が不十分、クオリティが低いとみなされることもあると思います。

スタンダールの『赤と黒』の本編の冒頭は、舞台となる街を、風景の描写から導入して俯瞰的に説明する内容になっています。出だしでいきなり興味を引くような事件や驚きはないので、退屈と思われるかもしれません。

そういった世界・状況の説明的な描写は、別に必ずしも必要ではないと思います。

マトモに出来事などを描写したいなら、便宜的に必要かもしれません。

でも、小説や詩がそういった世界や状況の具体的で詳細な描写を必要とし、主人公がいて、ストーリーがあって、みたいな類型の中に当てはめて、そういうものばかりがコンテンツだと思い、それと比べてどこが良い悪いとか言われても、そんなものは一つの価値観にすぎず、別に取り合うことはない。

さらに突っ込んだことを言えば、文章が知識よりも創造性に立脚しているべきというのが僕の態度です。べきというか、それでいいよ、もう、と。これまでの人々は、なかなかそういう風に振る舞えなかったんじゃないでしょうか。そんなことしても、子供の遊びにしか見えないでしょう。いや、実際にそうでしょう。

それでいいです。

自由だし。気軽だし。

先人と同じように振る舞う・生きる必要は必ずしもない。

言うに値することがなければ書けない、書くことは(自分のプライド的にも)できない、という感覚(判断)はあると思います。これは誰にだってあると思います。

重要なのは、これまでの人が「それは言うに値しない」と考えてきたものの中から、将来の世代の創造性はたくさん現れるだろうことです。

これまでの人が「え、それでいいの?」と思うような。「それじゃダメだろう。そんなのには価値ないよ」と思うものです。

内容が知識に基づいているべきであるなどの感覚は、僕も普通に理解はできます。でも、なんかもうどうでもいいです。疲れました。先人がそのさらに先人と同じように、自分用に健気に調達した知識を売りにして、「これで自分も〜」的なの、もういいです。飽きました。

先人と違う態度を主張することにします。先人に認められるように生きるのって馬鹿馬鹿しい。先人の方も、僕に認められることはないでしょう。自分が面白いと思うことを追求すればそれでいいです。閉ざされてます。

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