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🌞本日はお日柄も良く、納骨日和 3/13

3/13(日)。

この日は、伯母二名と、うちのクソ父の納骨だった。

正直、伯母が亡くなってから四年半、父が三年以上遺骨を放置していたことに対して非常に思うことはあるが、とりあえず親族と協力して、今度こそきちんと埋葬することができる。

納骨は午後1時30分の予定にしているが、出発に時間がかかるのを見越して、午前11時30分に実家に行く。

出発予定は12時30分であるが、母は既に黒いコートを玄関に置いて、黒い服を着て準備は万端だと言っていた。

こちらは骨壷と遺影を先に車に積み込んだりしておく。

で、出発しようとすると、お茶を準備しようとしたりコートや上着を迷ったり、戸締りにくるくるしたり、結局出たのは12時30分だった。

うむ、我ながら読みが正確である。

墓地には、石屋が既に来ていた。

申請書の手配をした年長の従兄と、もう一人の伯母の埋葬許可証を持参した従姉と落ち合い、墓地の管理事務所に書類を提出する。

こちらの荷物は兄と母に預け、先に墓所に向かってもらう。

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別の伯母の遺骨を持参してきた従姉妹は、午前中に故人の希望で故人が通っていた教会の礼拝に参加し、納骨式牧師を伴ってきていたので、実際に場所に行ってみたら、案外と親族以外の人数が多かった。

故人(伯母二人)の友人だった方々が、納骨の話を聞いて、参列してくれたらしい。

納骨式は、牧師が説教したり讃美歌を歌ったりしていたので、母は途中で立っているのが辛くなって座っていた、まあ仕方ない。

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納骨に関して思ったのは、やはりこういうことは然るべき時期に、然るべき手順で行うべきだということだ。

不謹慎な言い方に感じる人もいるかもしれないが、骨は悲しまないし、痛がらないし、どこにどう置かれていようと特に何も感じるわけでもない。

が、これもよく言われることだが、葬式も納骨も生きている人間のためにこそある。

先に逝った人々に礼を尽くすのは己の尊厳のためだし、きちんと礼節を尽くしたという事績は遺された人々にこそ必要なのだと思う。

それは、納骨を終えてホッとしている様子の母を見ていると顕著に感じられることでもある。

数十年後には己も骨になるということを、誰でもがいつかは死ぬということを、どこか心の片隅に置いて、己のできることとすべきことをやっていくべきなのだろう。

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その後は、午後2時30分を過ぎていて、遅くはなったが昼食を食べにうどん屋に立ち寄った。

自宅に帰って荷物を片付けていたのだが、ここで個人的に一件驚くべきことが発生した。

お骨を入れていた木箱(当然空)や包んでいた白風呂敷、十字のプリントされた黒いカバーなどを、私が見えないようにして捨てようとしていたら母が止めてきたのだ。

あんた、それ捨てるとね、もったいない!
なんか使えるかもしれんやろ!」

いや、風呂敷はまだしも…、ずっとお骨包んでいた木箱とか、捨てよう!?

さらに、十字のプリントされた明らかに葬式用の木箱カバーとか、何にリサイクル!?

「これ(十字架)擦ったら消えるっちゃないとね!
 あらっダメやね…。」
と言って黒布をこする母。

プリントしてあるからダメだと思うし、それを何にリサイクル!?

木箱に菓子とか入れるのとか絶対にやめてほしい。

きっと離れに押し込まれると思うので、こっそり処分しようと思う。

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この日は夕方、兄を空港に送って終わり。

母には、明日は入浴のデイサービスなので準備を忘れないように言うと、
「分かっとうよ!
もうしとう!」(もうしてある)
と言いながら、明らかにそこから準備を始めた。

まあ準備ができればそれでいい。


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高梨
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