「相手を尊重しよう」に違和感がある。
「相手を尊重しよう」という表現に違和感を覚える。これは、尊重していないという暗黙の前提が含まれている。だから、上から下への関係、上から目線を感じる。そして、どこか無理をしているような……。
果たして尊重しようとして、それができるのか。話を聞かなかった人が「話を聞こう」とするコトには嬉しさを感じる。しかし、それはギャップからくる感覚であり、「話を聞く」という、そのまんまの意味だと思う。
そもそも、尊重とはどういう意味だろう。
「①価値のあるものとして大切に扱うこと」とある。連想したのは「何を言ったかではなく、誰が言ったか」という言葉だ。同じコトでも「誰が」発言するかで、反応がまるで違う、そんな場面をよく目にする。苦々しく思う人もいるだろう。
その「誰か」という「人」自体に価値を感じていれば尊重するだろう。専門家であったり、成功者であったり、「信用」は価値になるのだ。
だから、信用のない人の意見は価値を感じず、受け入れられない。ましてや、嫌いな人では否定もしたくなる。
そうなると、尊重には「信用」が必要不可欠だろう。もしくは「誰が言ったかではなく、何を言ったか」へシフトするか……。
若い頃に『死と生きる: 獄中哲学対話』を読んだ。哲学者 池田晶子氏と死刑囚による往復書簡である。だいぶ忘れてしまっているが、この中で池田晶子氏は「誰が言ったかではなく、何を言うか」というようなコトを何度も手紙に書いていた。
「何を言っているのか」、その「人」ではないところにも価値を見出すことはできる。読んだこともない漫画、観たこともない映画の名言に感動したことはあるだろう。むしろ「何を言っているのか」に集中した先には尊重があるかもしれない。これは1つの手ではないか。
そうでなければ、相手の「尊敬」できるところを見つけ出すという方法もある。尊敬する人の発言は、自然と尊重するコトになる。
価値観もバラバラ、見識もバラバラ、そんな中で「尊重しよう」から始めて苦しくはならないだろうか。信用も尊敬もなければ、尊重するのは難しい。
だから、尊重は、おそらく結果である。
そうであるなら「相手の言葉に集中する」「相手の信用または尊敬できるところを見つけ出す」を試す価値があるかもしれない。これは、どちらも相手を「よく知ろう」という姿勢だ。
その姿勢、そのさまこそが「②とうとく荘重であること。また、そのさま。」という、もう一つの「尊重」ではないか。
「相手を尊重しよう」ではなく、「相手を知ってみよう、探してみよう」から始めてはどうか。
この気持ちは、多くの人が知っているはずなんだ。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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