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「相手を尊重しよう」に違和感がある。

 「相手を尊重しよう」という表現に違和感を覚える。これは、尊重していないという暗黙の前提が含まれている。だから、上から下への関係、上から目線を感じる。そして、どこか無理をしているような……。

 果たして尊重しようとして、それができるのか。話を聞かなかった人が「話を聞こう」とするコトには嬉しさを感じる。しかし、それはギャップからくる感覚であり、「話を聞く」という、そのまんまの意味だと思う。

そもそも、尊重とはどういう意味だろう。

尊重
① ( ━する ) とうとびおもんじること。価値のあるものとして大切に扱うこと。そんじゅう。
② ( 形動 ) とうとく荘重であること。また、そのさま。

精選版 日本国語大辞典

 「①価値のあるものとして大切に扱うこと」とある。連想したのは「何を言ったかではなく、誰が言ったか」という言葉だ。同じコトでも「誰が」発言するかで、反応がまるで違う、そんな場面をよく目にする。苦々しく思う人もいるだろう。

 その「誰か」という「人」自体に価値を感じていれば尊重するだろう。専門家であったり、成功者であったり、「信用」は価値になるのだ。

信用
① 信じて任用すること。信任。
② 信じて疑わないこと。確かだと信ずること。
③ 人望があること。評判のよいこと。信望。
④ 将来、義務を履行することを推測して信認すること。
⑤ ( [英語] credit の訳語 ) 一方の給付がなされたあと、一定期間後に必ず反対給付がなされるという経済上の信認。

精選版 日本国語大辞典

 だから、信用のない人の意見は価値を感じず、受け入れられない。ましてや、嫌いな人では否定もしたくなる。

 そうなると、尊重には「信用」が必要不可欠だろう。もしくは「誰が言ったかではなく、何を言ったか」へシフトするか……。

 若い頃に『死と生きる: 獄中哲学対話』を読んだ。哲学者 池田晶子氏と死刑囚による往復書簡である。だいぶ忘れてしまっているが、この中で池田晶子氏は「誰が言ったかではなく、何を言うか」というようなコトを何度も手紙に書いていた。

 「何を言っているのか」、その「人」ではないところにも価値を見出すことはできる。読んだこともない漫画、観たこともない映画の名言に感動したことはあるだろう。むしろ「何を言っているのか」に集中した先には尊重があるかもしれない。これは1つの手ではないか。

 そうでなければ、相手の「尊敬」できるところを見つけ出すという方法もある。尊敬する人の発言は、自然と尊重するコトになる。

尊敬
他人の人格、思想、行為などをすぐれたものとして尊び敬うこと。

精選版 日本国語大辞典

 価値観もバラバラ、見識もバラバラ、そんな中で「尊重しよう」から始めて苦しくはならないだろうか。信用も尊敬もなければ、尊重するのは難しい。

 だから、尊重は、おそらく結果である。

 そうであるなら「相手の言葉に集中する」「相手の信用または尊敬できるところを見つけ出す」を試す価値があるかもしれない。これは、どちらも相手を「よく知ろう」という姿勢だ。

 その姿勢、そのさまこそが「②とうとく荘重であること。また、そのさま。」という、もう一つの「尊重」ではないか。

 「相手を尊重しよう」ではなく、「相手を知ってみよう、探してみよう」から始めてはどうか。

 この気持ちは、多くの人が知っているはずなんだ。

なにが 君のしあわせ
なにをして よろこぶ
わからないまま おわる そんなのはいやだ!

『アンパンマンのマーチ』より

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