それでもなお、軽々しく吐いてしまうのだろうか
言葉だけがひとり歩きして、情報だけが耳に入り、目に入り、想像や妄想と作り上げられたイメージが確立する過程に共通認識が生み出され、それがまた確固たるものに変わる。
そうして、できあがったイメージ、姿がモデルとなり、語り継がれ、広まっていく。
それがまるで正しいかのように。真実であるかのように。事実であるかのように。根強く、イメージがーーいや、もはやそのものとして存在してしまっているかのような状態が、何とも言えない。
アスペ、という言葉が嘲笑的や批判的に使われているものを見るたびに、悲しい気持ちになる。
本当に、困っている人たち。悩んでいる人たち。そんな人たちがいる中で、支援を受けるために診断を受け、それがかえって非難の的になるような、そんなイメージや実際の社会が、何とも言えずに悲しい気持ちになる。
言葉はそれだけ強い。
本人の気持ちや考えを超えて育ってしまうものもある。
それはたぶん、いじめ、によく似ている。
気持ちや考え、想い、みたいな見えないものではなく、目に見えるその行動がどう見られるか、思われるか、まで想像しなければ、その行動を起こしていることは事実なのだから、どんな言葉も意味をなさない。
同じように、そんなつもりで言っていなくても、もちろんそのつもりだとしても、それがどれだけ当人に影響を与えるかーー事実としてその言葉を受けてどう見えるか、思われるか。何も考えずにいたとしても、その責任は当然存在する。
軽々しく、扱えるものでは、本来ない。
言霊、という言葉もある通り、言葉は、想いは、力を持ちうる。
そんなこと知らない、考えたことがない。
そんなものは、言い訳にはならない。
それが罷り通るなら、なんと都合のよいものであろう。それこそ、見たくないものは見ません、と公言しているようなものだ。
それだけ強い力を持つ、言葉を操るものたち。
それだけの責任を持ち、言葉を操るものたち。
どんな言葉で、どんな言葉を、どんな想いで、どんな想いを、伝えられるだろう。
自分の心に、自分の魂に、問いかけてみる。