わかろうとする その気持ち
人の痛みや苦しみ、喜びや幸せでも、なんでも、それを理解することは気が遠くなるくらい難しいし、まして共有することなど、できない。
けれど、それが限りなく遠い、果てしなく深い先にあるものだからといって「理解しない」という道を選ぶことはしたくないし、かといって軽々しく「わかる」なんては言えない。
どんなに同じことであっても、それを同じように感じるかどうか、それはわからない。自分の感覚でしか、世界に触れることはできないのだから。
なんていう、おそろしいまでの孤独を、私たちは生きているのだろう。
だからこそ、きっと
私たちにできることは ただ
想像力を働かせ、心を砕き、精一杯 寄り添うこと
寄り添う ということが、どれだけ人の救いになるかは、わからない。心で相手の声を、言葉を、心を聞く、ということが、どれだけ救いになるかは、わからない。けれど、
私たちにできることは、わかる、ことではなく、わかろうとすること。
それだけが、きっと、私たちにできる、精一杯。相手の世界との橋渡し。
自分の感覚でしか世界を生きられない以上、痛みも苦しみも喜びも幸せもすべて、自分だけのもの。そこに優劣も真偽もない。ゆえに、
それを決めるのは、私、なのだと思う。
私は、私のことさえ、理解できないのだから。他者がどう感じているかなんて、理解できるはずもない。それは、理解しない、というわけではなく。
理解できなくて、いいのだと思う。
理解されなくて、いいのだと思う。
私は、それを望まない。
理解しなくてもいい、理解しようとする気持ちがあれば。少なくとも、私は、そう思う。
理解されなくてもいい、理解しようとする気持ちもなくても。それは、私では、ないから。
少なくとも、私は、そうありたいと思う。
少なくとも、私だけでも、そうありたい。
仮に私が貶されても、私は貶しはしたくない。それぞれの、価値観が、感性が、生き方が、感覚が、あるのだから。否定する必要もない。ただ、
否定されるつもりも、毛頭ない。
必要なのは、意見を、想いを、伝えること。貶すことではない。
何もかもが苦しくて、何もかもが疎ましくて、息をするのもつらくなって、落ちてしまう、ときもあるのだけれど。そんなときには、すべてを悲観的に受けてしまうときも、あるのだけれど。
それでもなお、何ができるか。
それでもなお、私が、選ぶ、私の、生き方は、何か。
私に、何が、できるのだろう。
……そんな、きれいごとを吐いて、結局、私も感情で言葉を伝えてしまうこともあって、まったく、何も、できていないくせに。そんなことばかり……。
この矛盾に、やるせない気持ちに、ただの理想論だと吐き捨てて。
私に、何が、できる? 何が。
それでも、それでも。
それでも、なお。
わかろうとする気持ちだけは、忘れたくない。
わかろうとする気持ちだけは。
やっぱり、それが、精一杯。
私にできる、精一杯。
*
りようさんの記事を読んで、支援においてこんなことを考えていたのを思い出しました。
以前に、似たようなことを書いた気もしますが。
りようさんの、こちらの記事における伝えたいことの本質とはかけ離れてしまったようにも、書いていて感じましたが、私が感じた、思い出されたことは真実なので、こうして記事にさせていただきました。
ありがとうございます。