ただ、いつものように
その光景を見たとき――いや、違うか。その光景をあえて、見ようとはしていなかった。それでも目の端でとらえてもしまうし、視界に映ってもしまう。まして、その声や言葉は、どうしても耳には入ってしまう。それは、どうしようもなかった。意識しようとなかろうと、たいした違いはない。……いや、それも、違う。意識せざるを得ない――違う……その空間があまりに特別な空気に覆われていて勝手に映りこんでくる。違う、違う! 特別なんて、ものではない。それはもう、当たり前の光景。いつでも、自然に、見られるもの。私にとって言えば、呼吸をするくらい、何も考えなくても存在するもの。それは避けようもなく、防ぎようもなく、私の心をむしばんでいる。
ひとり、準備を重ねながら、その様子を目にしている。見なくても、わかる。
ただ、それが悪いものだとも思えないくらい、現状がひどいものだ、というのもわかる。自分たちの心を守るため、仲間意識を高めるため、何でもいい、言い方なんて、なんだって。そんなふうにしていかないと保てないくらい、ひどい状況だっていうのも、わかる。
そんな状況下の中で、精一杯、みんな、精一杯、やっているから。それに関して、文句も何もなかった。
ただ、私には、そこに一緒になって入ろうとする気持ちはなかったし、非難する気持ちもなかった。
何か、何が、違うんだろう。
淡々と、ただ、準備をするうちに、どこか、何か、壊れてしまったかのような、心に落ちる影をゆっくりと自覚しながらそれでも体を動かしている。無理やり、動いている。何も考えていない、何も感じていない。どこか遠く、私を、見つめている、そんな、感覚。あぁ、やっぱり、そう、だ
私は、何かが、違うのだろう。きっと、何か、何か、それが何かは、わからない、私には、わからない、けれど。私が、おかしい、から、誰とも、共有できない。共感も、できない。私には、わからない。
どうしたら、いいのだろう、どうしたら、よかったのだろう。
それとも、それすら、甘え、なのだろうか。
それすら? なんておこがましい、傲慢な思考、だろう。
わからないのも、おかしいのも、すべて、私、私が悪い、わからないから、おかしいから、すべて、私が、みんなと同じになれないから、何も、何もかも、わからなくて、おかしくて、誰とも共感できずに、すべて、すべて、私が悪い、私が、悪い、から、どうしても、何もかも、わからなくなって、おかしくなって、こんなふうに、なってしまう。すべて、私が、未熟、だから。何も、できて、いない、から。
それ、でも、体は、動く。何とか、動かす。
私にできることを、ただ、する。しか、ない。
「今日はどうしたの? なんでそんなに負のオーラをまき散らしてんの?」
かすかに笑みを浮かべながら春子さんがそう、声をかけてきた。ぴたり 手を止めて、目を向けると、いつものような表情で私を見ている。あきれているわけでもなく、怒っているわけでもなく、ただ、自然に。
「元気ないの?」
その言葉に、いつものように、普通です、と答えているつもりが
「元気ないです」
そう口からこぼれていた。
それを聞いた春子さんは、かすかに笑みを浮かべながら
「元気ないんかい。それならそれで仕方ないけれど、その負のオーラは少し抑えなさい」
やっぱり、いつものように話してくれる。
気をつけます、と小さく返す。ん、と春子さんは仕事に戻っていった。
それから意識をしてみた。意識をした分、より鮮明に感じる。気持ちを少し切り替えたつもりであったが、声の小ささは変わらなかったようで、みんなの挙動にそれは表れていた。申し訳ないと思いながらも、自分としては普通に話しているつもりだったから、どうにもできなかった。声になっていないときも、多々あったと思う。
それでも無事に業務が終わった。
外から戻ってきたとき、もうみんな帰ってしまったかと思っていたら、リーダーと春子さんが残っていた。片づけを済ませてから、残ってしまっていた最後の仕事に取りかかる。
「あら、まだやってなかったの? ほら、負のオーラをまき散らしていたからでしょう、まったくー」
いつもなら終わらせているでしょうに、そう言いながら、おもむろに立ち上がって、何かないかなぁ、と冷蔵庫のほうに向かった。すると、先日差し入れのあったアイスがちょうど三つの残っていたようで、どれにするー? 声を弾ませながら持ってくる。春子さんはリーダのほうを ちらり 見た後、
「ほら、あんたから選びなさい、元気ないんだから」
アイスを私に見せる。
え、いや、えっと、その、はい、では、それで
突然のことにしどろもどろになりながら、正直、初めは何を選んでよいのかもわからなかったし、むしろ残りもののほうがよかった。それでも頭はどうにか働いたのだろう、瞬時に選んだほうがよい、と判断し、何とか選ぶことができた。
リーダーは残った二つのアイスからどちらにするかを選びながら、
「俺も今日何人かから、太田さんどうしたんですか? 何があったんですか? って聞かれちゃったよ」
そんなことを話した。
それは、何気ないものだったと思う。そんなにたいしたことではない、と。それでも、私はそれを聞いた瞬間に がつん と衝撃を受けて、
そんなに、迷惑をかけていたのか
なんで、こうなんだろう
私は、本当に、なんて、だめなんだろう
なんでこんなに、できないんだろう
ぐるぐる ぐるぐる いつまでも めぐっていく
同じことを繰り返し、同じことの繰り返し
そんなことばかりがずっと、頭の中を駆け回っていた。
その様子をじっと見ていたのだろう、春子さんは帰り支度を済ませて行こうとしながら、
「言っとくけれど、月曜日にまだそんな負のオーラ出していると承知しないよ」
その口調は、責めるようなものでもなく、かといって励ますようなものでもなく、ただ、私の姿を見て、言いたいことを伝えてくれていた。そこに、善も悪もないような、純粋な本心が透けて見えるような。自分の感覚によった、その言葉、その声色、それがどんなに すっと 入ってくるものだったか。あまりに自然体で、あまりに心地よくて、抵抗なくしみこんでいく。いつまでも駆けめぐっていた思考は、ふと、気がつけばいつの間にかに まっさら 消え、静まり返った湖面のような穏やかな心地が支えてくれていた。何でもできそうな、様々な展開ができそうな。そんな広がりが見える、静けさがあった。
春子さんは私の瞳を見て笑みを浮かべながら、お疲れ様、早く帰んなさい、と部屋を後にする。去っていくその背中を見ながら、私も――笑みがこぼれていた。
「よし、片づけも終えたし、俺たちも帰るか。まあ、ゆっくり休みなさい」
いつの間にかすべての片づけをしてくれていたリーダーも、特に何も言わず、何も聞かず、自然に、私に、かかわってくれる。信じて、くれている、のかな。……うん、きっと、そうに、違いない。
あぁ、本当、私はなんて、だめなんだろう。なんで、こんなにも私を、私を、一人の人間として見てくれている人たちがいるのに、なんて、だめなんだ。もっと、信じないと。私を、私を。私が信じないで、誰が信じてくれるのか。……本当、なんて、だめなんだろう。これは、月曜日にはしっかり、戻しておかないと。春子さんになんて言われてしまうか、わからない。
お疲れさまでした
その声を聞いたリーダーも、春子さんと同じような表情を浮かべると、手を挙げて更衣室に向かっていった。その背中を見ながら――私も笑みをこぼし、背を向けて、更衣室へ向かった。