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目を開いて みる

 こうして歩いていると、いつでもいろんな発見がある。同じ道でも、同じ時間でも、同じことなんて、ひとつもない。

 同じである、なんていうのはきっと思いこみであって、そのときの縁そのものによって、まるで違う世界を色づけてくれているものだ。

 この世界は縁で満ちている。

 縁で満ちているからこそ、こうしてめぐり合い、離れ、流転していくものなのだろう。

 ふいにそんな考えが脳裏に浮かんでは、思わず笑ってしまう。

 そんなことなんて、考えなくても、いいのだ。

 降り注ぐ日差しも、すり抜けていく風も、きっと同じではない。

 私ひとつとったって、そうなのだと思う。私を構成しているものはすべて、同じひとところにいるわけでもなく、細胞だって古いものから新しいものに変化していく。そう、すべては違う。吐く息、吸う息ですら。

 世界ーー国でいう世界も、たしかに広いと思う。日本だけに留まっていては小さくまとまってしまう、とか、新たなものを見たい、とか、自分を広げられない、とか、経験が、とか。いろいろあるのもわかる。けれど、

 他の国のどこかから見たら、日本も世界のどこかであって、未知の領域なのだろう。日本、ではなく、外国であって、世界なのだ。

 小さく、お高く、まとまる必要はない。けれど、必要以上にどこか別の場所へ行く必要も、ない。

 どこに行かなくても、こんなにも毎日が違い、刺激的だというのに。一分、一秒たりとて、同じなんてことはないのに。そこから得られる情報ですら、私の枠を簡単に超えてしまいそうになるのに。どこでもそれは、変わらないというのに。

 それでも、誰かの呼ぶ声に、どこかに出かけるのもまた、ひとつ。

 声だ、声だ。

 その声に、導かれて、私たちは、歩いているんだ。

 その声に、その誰かに、人に、その出逢いに、私たちは自分を開き、世界を開いて、広げていく。

 この世は縁で満ちている。

 結局、ここに落ちつく。

 なんて、そんな思考を巡らせていけるのも、こうして目を開いて世界を見つめているからなのだろう。

 ただ……そんなこと、考えなくてもいい。

 私にとっては毎日が、日々新しい色を持って誕生し、芽吹き、産声を上げ、創造される。同じだなんて、一日、いや、一秒たりとて、そんなときはない。刹那に過ぎていく時間に触れて、私たちは歩いている、だけ。

 あぁ、今日も、私は、生きた。

 明日の私は、今日を、生きるだろうか。

 それは、今の私には計り知れない。計り知れない、が、それでも。

 また、明日、とささやいてみる。

いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。