鏡
相変わらず、不気味に思える。
いつ見ても、どう見ても、変わらない。
ため息も、もうこぼれないくらい。
どうしようもない。
隣にいるお客さんは美容師さんとそれなりに会話をしている。私からすれば、当たり障りのない会話に思える。人は、なんでそんなに話すことがあるのだろう。そこまでして、話さなければいけないのかしら。
私を担当してくれている美容師さんは、私のことをもうわかってくれているから、必要以上に話しかけてはこない。それでも、ほんの少しの世間話は持ちかけられた。私も、そのくらいなら付き合うこともできたけれど、空気感、というものは伝わるのだろう。それ以上はいつも、踏みこんでこない。とても、ありがたく思う。
静かに、髪を切る音がする。それだけでいい。
ちらちら 視線を動かせる範囲で周りの様子や外の様子などを眺める。所在なさげに、あちらへ、こちらへ。隣のお客さんの会話が聞こえる。甘いものは、私も好きだな……
あぁ、やっぱり、不気味だ。
何度となく視線を外しているものの、それでも真正面を向く機会というものはあるものだ。なんでだろう。それは、いつから、だろう。それとも、初めから、私はこうだったのだろうか。
目の前には、私が座っている。髪を整えてもらっている、私が座っている。無表情の私が、そこにいる。死んだように、人形のように、無表情の、私が。
何も、不機嫌なわけではない。なんなら、表情を少し変えようともしてみた。けれど、映るのはいつも変わらない、不気味なもの。私の姿というものは、こんなにも不気味で表情のない、能面のような。感情を何も思わせないものなのだろうか。
自分では意識しているつもりだった。
今は、周りから何を言われたこともない。
昔は……なんでそんなに何も感じてないの? って、言われたこともある。その言葉を聞いたとき、私は衝撃を受けたし、かといってどうしたらいいのかもわからなかった。何も感じていない、なんて、そんなことはなかった、から。
そのとき、からだろうか。いや、もっと前から、だっただろうか。いつもこんな不気味な顔しか、見ていない。生気のない、表情のない、こんな顔しか。
本当の私の顔はきっと、こんなものに違いない。こんな顔を世間にさらけ出しているかと思うと、恥ずかしい気持ちもあった。今は何にも言われない、けれど、どう思われているのだろう。
私は、ちゃんと、楽しかったり、悲しかったり、している――それとも、それこそが誤りなのだろうか。本当は楽しくもなければ、悲しくもない。何も感じていないから、こんなにも無表情なのではないか?
美容師さんは真剣なまなざしで、私の髪と向き合っている。隣のお客さんは、会話を楽しんでいる様子が表情に表れている。それは、やっぱり、鏡のせいでは、ないらしい。
「今回は、このように整えさせていただきました。いかがでしょうか?」
美容師さんが鏡を持ってきて、後ろ髪の様子も見せてくれる。
私は小さくうなずくと、
「それでは、ヘッドスパをしましょうか、こちらまでどうぞ」
そうして鏡から抜け出せた私は、逆にガーゼで視界を覆われて何も見えなくなった。暗闇の中でシャワーの音、マッサージをされる感触、シャンプーの香り、そして何も見なくていい安心感に包まれて、心地がよい。
こうしてガーゼに覆われてしまえば、私の表情も幾分見られるものになるだろう。そんな安心感もあった。こんなに近くで、あんな不気味な顔を見せるには、いささか抵抗がある。それは今更だとは思ってもなお、そんなふうに感じてしまう。
そういえば
シャワーの音がやみ、指が頭を刺激する中で、代わりに美容師さんの声が聞こえる。
「先ほど、髪を整えている間、途中で笑ったり、悲しんだり、鏡を見ながらいろいろ表情を確認されていましたよね。どれも今回の髪に合わせているような感じがお似合いでしたよ」
思わず、声が漏れてしまう。
あまりの動揺に、すぐに返事することもできない。
ガーゼの下でまぶたを何度もぱちくりさせながら、美容師さんの言葉を頭の中で反芻する。
私が、表情を変えていた? 私が、ちゃんと表情を映していた? この、私が? あんな無表情で能面で生気のない不気味な顔をした、私が?
あまりにまごついたまま返しの言葉のない私を見かねたわけでもないだろうけれど、
「どんな表情もお似合いですよ」
と何の飾り気もない声色で伝えてくれた後は、別の話題を二言三言話してくれた。
それにはどうにか私も応えることができ、そのあといつも通りに静かにマッサージをしてくれる美容師さんに感謝をしながら、いまだその声が鼓膜をゆらしているようにも思う。それは耳よりも、脳に直接語りかけているかのようでもあり、胸に響いて鳴りやまないようにも感じられた。
ヘッドスパが終わり、再び鏡の前に座る。
相変わらず、不気味に思える。
いつ見ても、どう見ても、変わらない。
ため息も、もうこぼれないくらい。
どうしようもない。
それでも、美容師さんには――周りから見れば、違うように見えているのだろうか。ちゃんと、笑っているのかしら、泣いているのかしら。それを、見せているのかしら。
鏡だろうと、そうでなかろうと見えない私の表情を知るすべもない。
かえってその言葉が私を惑わせ、一抹の不安を覚えさせる。
しかし、それを知ってしまったからには、もう戻れない。
たとえ、私には、見えなくても。
そのときの気持ちに殉じて、すなおにいよう。
それがきっと、表情にも表れているに、違いない。
もっと、自信をもって、自身をもって……。
そうでなければ、もう、私は、私には、わからないから。
自分の表情がわからない、から。
もし、本当に、ちゃんと、見せているのなら。
それが、できて、いるのなら。
「ありがとうございました」
美容師さんに見送られて、お店を出る。笑顔……をきっと向けて会釈をし、階段を下りる。折り返し際、いまだ頭を下げてくれている美容師さんに再び会釈する。
階段の途中に姿見がある。
立ち止まって、髪を確認するかたわら、自分の顔を見る。
私は、すぐさま視線を切ると思わずため息をつき、階段を下りて家路に向かっていった。
いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。