それを知りたい
みんなは何で、あんなに楽しそうに笑えているんだろう。
窓の外を眺めているみたいに、遠くにいるように映るみんなの影を ひとり ひとり ゆっくり 見つめて、それが不思議でならなかった。
私はどうにも同じようにできていないらしいことは、生きていくうちによくわかってきた。わかってきたけれど、だからといってどうしたらいいのかはわからない。困っているか、と問われると、たいして困ってもいないから、別にいいのだけれど。
みんなの動きは統一性があるようにも感じられれば、まったく不規則にしか思えないときもあった。そんな動きの法則性もつかめず、かといってつかもうともしておらず、私はただ、眺めるだけであった。
音が聞こえるときだけ妙な緊張が走り、うつむいたり、耳を塞ごうとするよりもどこにいるのかを探し回ろうと視線をあちこちにやってしまう。その動きに「どうしたの?」声をかけられたときもあって、私はみんなに気取られないように探し回ることにした。
今日は特に、音は聞こえなかった。
「ほら、さやちゃんもこっちおいでよ」
突然、私の世界に彼女の声が聞こえてくると、窓の外だった視界から机を二つほど挟んで彼女の顔が見えた。いつものように、クラス内もざわついている。それでも、声の主は気にすることなく私を手招きしており、私も言われるがままに立ち上がると、近くに行った。
唯一と言っていい、私に、話しかけてくる人。
それを私は疎ましいとも思わなければ、うれしいとも思わなかった。誰も私とのかかわりを望んではいないことは私が一番感じていたし、かかわることでいろいろ見えてしまうのも正直疲れていた。疲れていた、けれどーー
彼女の説明を受けながら、はい、なるほど、相槌を打ち、最終的に、何でもいいです、と伝えると「わかった、ありがとう」私は席に戻った。
彼女は明るい声色のまま、その後も周りの人と話し合いをしている。そのうちのひとりが私のほうを ちらり 見て、ひそひそ隣の人と話しをしていた。
「そんなことないってー」
笑う彼女の声だけが聞こえてくると、その二人は びく 体を震わせてから何事もない顔になり、話し合いに混ざっていった。なんだかおかしな劇でも見ているような気分になった。
人が自然に笑えることは当たり前のことだと思ったのは、いつのことであろう。いや、そう思っていたのはきっと物心ついて自然に感じ始めたに違いない。けれど、それはあくまで人であって、私ではないだけだ。
「なんで、さやかは笑わんかね」
その言葉だけがくっきりと残っていて、誰がそれを言ったのかまでは覚えていない。
それを言われたとき、あぁ、私は笑っていないんだ、と初めて知った。それだけではない。私は笑っている「つもり」だったし、悲しんでいる「つもり」だったし、あらゆる感情は「つもり」であって、そう見られてはいなかった。なら、そうした感情はいったいどうやって表情になるのだろう。それが知りたくて、小さな子をよく観察してみたり、鏡の前で自分の顔をいじったり、下校中に下級生に石を投げたり、登校中に旗を奪って上級生を殴ってみたり、いろいろ、これまで、いろいろ、してみた。それでも、よくわからない。
今でも観察する癖だけが残り、それももはや、窓の外を眺めているみたいな遠くのものにしか思えない。
ふいに 音が聞こえた。
私はすばやく周りを観察しながら、音の出所を探ろうとした。外である以上、四方八方、どこから現れているのかわからない。警戒を持ってすすめなければならない。私は立ち止まり、周りを見渡す。しばらく、待つ。けれど、音は音のまま、それ以上の動きがなかった。
「さやちゃん、何してるの?」
背後から聞こえた声に思わず飛びそうになる心を抑えつけ、できるだけゆっくりと振り返る。怪訝そうな彼女の顔がなんとも言えず「別に」すぐに切り返して帰ろうとした。
「ねぇ、せっかくだから、一緒に帰ろうよ」
と、いつの間にか手を絡めて私を見つめる彼女の声が脳に木霊して響き、意味が後から伝わってくる。それを理解するより早く「いいよ」反応した私の声が聞こえてくるのもまた遅かった。
彼女との会話は、たしかにおもしろいものだった。これまで、こんなにゆっくりと話すことがなかったから、よけいに沁み渡る。あれだけ周りにいつも人がいるのもうなずけ、自然な表情の変化も心地よかった。
「さやちゃんって、かわいい顔で笑うんだね」
それは、彼女からしたら何気ない言葉だったかもしれない。私にとっては、特別なもので「笑ってる?」そう思われたこと自体、ほとんど経験がなかった。
「うん、かわいい。いつもこんな顔で笑っていたらいいのに」
知りたかった。どうして、笑っているかを知りたかった。笑っているのか。笑っているように見えるのか。私が笑っているのか。彼女からそう見えているのか。それとも、そう見えているように言っただけなのか。私なのか。彼女なのか。知りたい。知りたい。私は、笑っているの?
ためしに、彼女を私の家に誘ってみることにした。けれど、「今日は誰もいないから、帰らないと」それは断られた。しかし、
「うちに来るならいいよ。犬の散歩に付き合ってくれたら」
犬の散歩を終えた後、彼女の家に入った。誰もいなかった。
部屋はほどよく落ちついていて、きれいだった。余計なものも少ない。ベッドを背もたれにして、私たちは並んで座った。
そこでも、彼女との話しはおもしろかった。ただ、それ以上に私は知りたかった。けれど、どうしたらいいんだろう。私がそれを思案している間にーー彼女が急に抱きついてきた。
困惑して彼女の顔を見ると、これまで見たことのないような とろん 表情で私を見つめていて、そうして私を力強く抱きしめた。
息が止まるかと思ったけれど、思ったほどの力ではなかった。それでも身動きが取れないことに変わりはなく、それでいて、私の力は入らなかった。痺れてしまったようにも感じたし、私の意思がそもそも体に反映されていないようにも感じられた。彼女はそんな私を見てとってか、力をゆるめると私をまたあの表情で見つめて、耳元に そっと 口を近づけた。
「かわいい」
息を吹きかけると、そのまま耳たぶに歯を当てて、舌を すぅーっと 這わせた。
何かよくわからない感触が貫いて、思考がままならなかった。かろうじて、彼女の家にいる、ということだけが理解でき、それ以上何も考えられなかった。
彼女の歯が、舌が、私を犯し、蹂躙し、舐め回し、咀嚼している、ということが感覚的に伝わってくる。私は恐怖よりも、なんで、というほうが心に浮かんできた。その疑問は口にすることもできず、ただただ、心を駆け回るだけだった。
「かわいい」
私はそのとき、もしかしたら、他の人もみんな、こんなふうにして誰かを味わうことで、いろんな感情を手に入れることができるのではないか、と悟った。みんな、きっと、みんな、こんなことをしているんだろう。私には縁がなかった、これまで、こんなことしたことなかった。だから、私は笑えなかったんだ。
それがわかったとたん、急に体の操縦席に座れたみたいに、力をこめられることに気がついた。
そうして私を味わっている彼女の腕をつかんで反対に組み倒すと、それでも変わらない笑顔を見せる彼女を見下ろした。彼女はまるで、そうされることを待っていたみたいに抵抗することなく、私の食事を受け入れた。耳、頬、額、首、腕、手、胸、腹、足、その他様々な部位に歯を当て、舌を這わせ、ゆっくり、ゆっくり、咀嚼する。彼女の口から漏れる吐息が飲みたくて、そこにも舌を入れた。ふと、
内臓はどうやって咀嚼すればいいのだろう、と思い、それに通じる扉がないか、探した。中身まで食べられれば、よりいろんなものを吸収できる気がするし、彼女が一緒になったようで、それはおもしろいかもしれない。けれど、それはどこにも見つからなかった。そんなとき、また、あの音が聞こえた。思わず周りを見渡すが、すぐにそれは上からではなく、下から聞こえるのがはっきりとわかった。
あぁ、音の正体は、これだったんだ。
私は、初めて、初めて、安堵の気持ちを持って、この音を聞いた。そうして、それを止めるだけならすぐにできることもわかり、安心する。
それよりも私は、内臓を食べるための扉を探していたけれど、それも音を止めるときと同じではないか、と感じた。
そのときの彼女の表情は、先ほどまでと違って醜いくらい歪んでいた。けれど、私がどんな表情をしていたかは、私には結局、わからなかった。