コミュニケーションって、そもそもなんだろう
自閉症と呼ばれる方には(今はスペクトラムになるのかしら?)、いわゆる三つ組と言われるものがあった。
それは、自閉症、と診断される上で特徴的な三つの柱。
・コミュニケーションの障がい
・想像力の障がい
・社会性の障がい
である。言い方は古いかもしれません。
私の中では、根本的にはこの中で「想像力」というのが、主たるものではなかろうか、と感じている。
想像力に難しいところがあるために、相手の気持ちを想像することが難しく、コミュニケーションに障がいが生まれてしまう。同様に、その他見えないルールが想像できないために、社会で過ごしていく上で障がいが生まれてしまう。
社会モデルで考えたときには、社会のあり方そのものが寄り添っていないために障がいが生まれてしまうため、そもそも三つ組自体が個人モデル寄りな考えなのだとは思う。
かかわりを持ったことのない、けれども何となく広まる知識の中で持っているイメージがもたらす悲劇は、まるですべてを知っているかのように決めつけと勘違いの思いこみで当事者を見てしまう。
できること、できないこと。
それは、何も「自閉症」だから生じるものではない。
見るべきは個人であって、特性ではない。たしかに、その特性はあるものの、それがすべてではないのだ。
コミュニケーションにおいて、その言動だけでは何を思っているのかわからないこともあると思う。けれど、何も思っていないわけではない。
コミュニケーションとは、相互作用によるもので、私が理解できないからと言って、相手がコミュニケーションできていない、と感じるのはそもそもおかしな話しなのだ。
なぜなら、相手にとっては「私」であって、なぜ私の言っていることが理解できないのだろう、とかえって思っているのかもしれない。
それはもちろん、障がいと呼ばれるものをお持ちの方にだけではなく、どんな人にだって当てはまるもの。
どんな人も、自分の想いを持っているであろう。
コミュニケーションの重さ、深さを感じる。それは、私、相手、だけではないお互いの橋渡し。
コミュニケーションがうまい人、下手な人、得意な人、苦手な人。それは何を基準にしているものであろう。
コミュニケートにおいては、個人の力は関係するかもしれないが、コミュニケーションにおいては、お互いの協力のもとで成り立っているもの。
意外と、コミュニケーションができている「つもり」でも、コミュニケートであって、相手は理解していないことがあるかもしれない。
お互いにわかり合えることがコミュニケーションであるならば(もちろん厳密には得手不得手あるとは思うけれど)、うまい、下手、よりも相手に寄り添えるだけの気持ちがあるかないか、な気もする。
自閉症を例に挙げてみたけれど、それだけではなく、言語の違いや環境の違い、さまざまな違いの中で、齟齬が生じてくるものである。
その違いを受け入れて、聞くこと。
話すよりも、聞く。話し合うではなく、聞き合う。
それがコミュニケーションなのかな、なんていうことを、理想的ではあるけれど、思うしだいである。