糸 ~エピローグ~
あれからもう、四年経つ。姉のいなくなったあの日から、もう。しみじみとそんなことを思いながら、色褪せていく姉の顔や声を鮮明に映し出そうとする。姉のことはとても印象的で、いろんなことを覚えているけれども、それでも月日がぽろぽろと細かく抜け落としている。不規則に消えていく記憶たちはかえって全体をぼやけさせ、細部まではっきりとは思い出せない。
最後に会話をしたのはどんなことだったろう。どれが、最後だったんだろう。わからない。けれども、そんなこと考えても仕方ない。
ただ、妙に騒がしかった記憶だけは、残っている。姉のいなくなった後、でも、それはそうだろう。しばらく眠れない夜が続いた。睡眠不足からか涙が止まらなかった。それはいつまで続いただろう。急速に波が引くように、いつの間にやら騒々しい時間は終わった。結局見つかることはなかった。手がかりもなかった。今はもう、家族の誰も探しに行くようなことはしていない。それはでも、もう、仕方のないことだ。
いつか、ふらりと帰ってくるに違いない。私はそう思っている。この世界のどこかにいて、いつものようにさまよっているのだろう。ひょっこり帰ってきたら、また、いつものように笑顔を見せてくれるだろう。
あれから、もう、四年経つ。私はいつの間にか、姉と同じ歳になっていた。私の知っている、最後に見た姉の。ただ、それはあくまで私の見た姉と比べての話し。現実には、姉と同じ歳になるわけがない。
今日も暑い。からりと晴れた空。汗をぬぐって、歩き続ける。今日はお墓参り。そう、今日は、お墓参りだ。姉がいなくなってからも、習慣的に続けている、お墓参り。いつまで続けていくんだろう。
特別、用はなかった。お花を添えることもしない。ただ、手を合わせるだけの。
そうしていつものように、お墓の前に立つと、手を合わせてお辞儀をする。
その後は墓地の周りを歩く。いつもと、変わらない流れ。
なんてことはない風景だった。変わり映えもしない、いつもの景色。季節の移ろいだけが唯一の変化だった。それでも以前に比べれば、いろんなものを見るようにしていた。いろんなものが、見えるようになった。自然と、いつの間にか。
まだまだわからないことも多いけれど、はるかに多くの物事を知ることができた。
そんなことを思いながら、私はいつものように、あの樹木の門のところまで来ていた。ついつい、ここでは立ち止まってしまう。異界にでもつながっていそうなこの場所。どこまでも深く、暗い、おとぎ話にでも出てきそうな場所。
ふと、いつかのように蜘蛛がいるのを見つけた。目につくと、くっきりと姿を現し、この木々に負けないほどの存在感を醸し出している。巣にはぐるりと糸に巻きつけられた「何か」がいくつかたたずんでいる。よくは見えない。けれども「何か」がそこにいるのだけは、わかる。その中心に、蜘蛛はいる。悠々として、動かない。
そんな蜘蛛のように私もじっと動かず、観察していた。あのころの気持ちを思い出して、考えてみる。蜘蛛を見るたびに思考にはまる。それでも答えが出たことなんて、一度もなかった。姉があのとき感じていたことを、今でもまだ知ることはできなかった。
姉の言葉をたどりながら、何度も頭の中で反復してみているけれど、何の意味も見出せない。今回も、何も。そもそも、本当に何かを意図して質問したのかも、わからない。
突然、蜘蛛が動き出した。糸の巻きついている「何か」に向かって。
あれは、頭を押しつけているのだろうか。おなかがすいたのだろうか。食べて、いるのだろうか。飲みこんで、いるのだろうか。思わず、その姿に魅入ってしまう――
それは、スローモーションに見えた。いや、たんに、認識できていなかっただけかもしれない。その姿を見て、ようやく何が起こったのかを理解したような、想像したものがそんなふうに映し出されたような。そんな、感覚。
蝶が蜘蛛の巣に飛びこんできた。
蝶はちょうど、巣の上部、まだ何者もいない場所へ居を構えるように引っかかった。巣は衝撃を吸収し、糸は切れることなく受け止めた。受け止められた蝶自身はそれを愛とも受け取らず、何が起きたのかわからない、というふうに身をよじっていた。いや、もがいていた。何とかここから抜け出そうと、あがいている。翅の模様がむなしいほどにゆれ動き、それがかえって「必死」という言葉にふさわしかった。妙な、力強さがある。それが美しくも、悲しくもある。紛うことなく、生の輝きを見せてくれている。そして、その蜘蛛との差が、苦しく痛々しいものに、見えてしまった。
それは、私の身勝手な解釈だろう。それほどに、必死さが見える。あらんかぎりの力を振り絞っている、その姿が見える。あの中で唯一、主の蜘蛛を除いて唯一、生きていることの証だった。
いまだ食事の途中なのだろうか。蜘蛛はその場から離れることがなかった。すぐにこの蝶を糸で拘束する気はないようだ。それとも、単純に恐れているのだろうか。身体の大きさによる、恐怖を感じているのだろうか。いや、ふとすると、蝶のほうが大きくも、蜘蛛のほうが大きくも見える。大きさが、どうにも判別つかない。なんてあいまいなものなんだろう、人の感覚なんて。それでもたしかなのは、今すぐこの瞬間に、糸でがんじがらめにするつもりはないようだ。それでもいつかは、同じようにされてしまうのだろう。生きているのかも、死んでいるのかもわからない、そんな存在へと。それとも、抜け出すことができるのだろうか。
姉なら、この様子を見て、なんて思うだろうか。でも、きっと、何にも教えてくれないだろうな。
諦めずにじたばたとしている。命を、燃やしている。あれほどの熱意を、強さを、生きている証を、持ったことが私にあっただろうか? 他の誰も、沈黙し、何も伝えてはこない。糸に絡め囚われている。動けないでいる。支配、されている。この世界に、つなぎとめられている。無理に、生かされている。もしかしたら、そんな気持ちもないのかもしれない。そして、いつか飲みこまれてしまうのだろう。ああして、何も気がつかないうちに。終わりがくるのだろう。
深々とため息をつく。結局、私がいる間に、蜘蛛が蝶のところに行くことはなかった。それを見届ける気も起きなかったし、正直のところはどうでもよかった。それでも姉なら、きっと待っていただろう。姉なら、きっと。それでもなお、私にはどうでもよかった。私は、姉ではない。私は姉にはなれない。姉のようには生きられない。そのことに、あのころは気がつけなかった。ただただ、狭く、狭く、姉と同じでないことが嫌でたまらなかったし、不安でたまらなかった。違うことが苦しくてたまらなかった。
でも実際には、姉のほうが苦しんでいたんだろう。今になってわかる。そんなことを、思える。不安だったに違いない。私とは別のところで、不安だったに。
いろんなことに囚われていたんだろう。そのはざまで苦しんでいたんだろう。それでも、もがき、あがき、美しく生きようとしていたんだろう。うっすらと、笑顔を思い出す。
私は、もう、余計なことは考えなかった。必要のないことを、知ろうとはしなかった。そんなこと考えなくても、知らなくても、生きていく上で何にも支障がなかった。それで十分だった。周りと同調することのほうがよっぽど重要だったし、楽に生きられる。そうした、よくわからない不安に苦しめられることも、なくなった。
あの蜘蛛の姿が頭をよぎる……
突風が吹いた。勢いよく私に向かってくる風に思わず目をつむり、立ち止まって通り抜けるのを待つ。すぐに収まった。ぼぅと立ちつくしたままゆっくりと瞼を開いて手をかざし、気づけば空を見上げている。手の陰から日の光がこぼれて降り注ぎ、きらきらと輝いていた。そのきらめきに紛れてはるか天空から、一本の細い細い糸のようなものが垂れているのが見えた。光を反射して、透明感のあるそれは空と溶け合い、ゆうらりと風に流されていく。それを目で追いながら、つられていって樹木の門を見る。入り口から奥へと入り、消えた。いや、それとも。入り口にいた蜘蛛よりもさらに奥、ここから見える深奥の木で、大きな蜘蛛が糸を垂らしながら吊られていた。
了