不適応行動は本人からしたら適応行動
この言葉は、私が放デイに勤めていたころ、方々本を読んでいる中で気になった言葉のひとつだ。
不適応行動は本人からしたら適応行動
これは、視点をどこに持っていくかの違いにも思える。
ある種、当たり前だと思われる行動から外れる場合、外れた側がおかしい、間違っている、だから直さなければ、伝えなければ、となりがちであるが、それはその視点から見た上でのことであって、本人の視点で見たときにはまるで違ったものになるかもしれない。
例えば、落ちついて座ること。
例えば、話しを静かに聞くこと。
例えば、友達と一緒におもちゃを共有して遊ぶこと。
例えば、集中して物事に取り組むこと。
学校であれ、社会であれ、ある一定の秩序を保ってことをなす場合、それは必要なルールになり得るし、無意識にでも、それができないというのはありえない、という空気、当然できて然るべき、という空気が存在する。
しかし、それが難しいーーというより、苦痛に感じる方の場合、その自分の状況、状態に「適応」しようとして、周りから見れば「不適応」な行動をしてしまうことがある。
本人は、適応しようとしているのだ。
我々が捉えるべきところはそこである。
本人は適応しようとしている、ということを認めた上で、ではどのような「行動」が望ましいか、そうするためにはどうしたらよいか、を一緒に考える。
その行為、行動だけに着目してしまい、それを矯正しようとしても、本人の気持ちには伝わらないし、つながらない。まして、本人は納得もいかないだろうから、そもそも入ってもいかないし、ただ「怒られる」という苦痛の「回避」でしかない。それでは、本人の心が育まない。
相手の気持ちに寄り添い、想像する中で、どうしてそうした行動に至ったか、それは本人にも説明が難しいときがあるし、うまくいかなくてかえって挑発的な態度をとってしまうかもしれない。
そうした目に見える部分だけではない、相手の本当の気持ちを推し量ることはとても完璧にできることではない。けれど、少しでも近づけるように、想像してみること。そもそも、まずは認めること。
そうした視点ひとつ違うだけで、見える世界が出てくるし、その中で相手は本音を伝えてくれる、こともある。
言葉にするとこんな感じではあるものの、実際にできていたか、と言えば……。ではあるけれど。
ただ、不適応行動とは思わずに、本人からしたら適応しようとしている。ではどんな気持ちがあった。その上で、どう行動したら望ましかったかを伝えられるか。
そんなことを意識して取り組めていけたら、と今の職場になっても思う。