「正しさ」は本当によいものかもわからずに、人を傷つけるものになる
誰かの「正しさ」は、いたずらに人を傷つけるものかもしれない。
誰かの「勘違い」は、おもむろに人を傷つけてしまうかもしれない。
誰かの「思いこみ」は、ふいに人を傷つけるかもしれない。
誰かの「想い」は、とたんに人を傷つけるものになるかもしれない。
こんなデータがある、こんな本がある、メディアではこうやっていた、誰それがこう言っていた。
だから、何だというのだ。
現実に、苦しんでいる、悩んでいる、困っている、悲しんでいる人がいる以上、どんなものでも「心ない悪意」になりかわってしまう。
誰かの正しさが、それは勘違いか思いこみか、純粋な想いかはわからないけれど、人を傷つけてしまうことを、知ったほうがいいと思う。
言葉とは、それほど使うことが難しいものなのだ、と。
それがたとえ善意でも、それがたとえ真剣な想いだとしても。
相手の心に、立場に、想いに、状況に寄り添えないようなものは、ただの自己満足だ。
それがたとえ、相手のことを思ったことだとしてもなお。
寄り添えない、寄り添えていないのなら、ただの自己満足だ。
「正しさ」とは何か、私にはわからないものだけれど、それはきっと、自分が優位に立ちたいだけの、恐ろしい想いだ。
正しい、から、平気で伝えてしまう。傷ついているかもしれないなんて、思わずに。
正しい、から、何も疑わない。相手が違う想いかもしれないなんて、思わずに。
正しい、から、迷いがない。間違った道にいるかもなんて、思わずに。
正しい、から、相手を諭してしまう。それが自己満足だなんて、思わずに。
「正しさ」は視野を狭めてしまう。疑いをせずに、振りかざしてしまう。いつの間にかに、心ない悪意のようなものになりかわっていると、気づかずに。
そうなってしまう、そうなってしまっているかもしれない、と。ふとしたときに思いながら、寄り添うことの重みと大切さが心に染み渡る。
自分の想いがついつい「正しさ」になっていないか、振り返りながら。
そう思いながらも、ふと読み返してみると「正しさ」という感情に縛られていないのか、心配になる。
感情でものを書いてしまっていないか、それこそ誰かを傷つけるものになってしまっていないか。
難しい、ものですね。