校長室通信HAPPINESS ~「特別な子」は本当に「特別」なのか?
なぜ教室に入れない子がいるのか
多くの子どもたちが学校に張り切って登校している中、学校には不登校、登校しぶり、教室に入れない子どもたちも少なからず存在します。学校がその原因を、「負荷を与えない子育ての反動」「母子分離ができていない」と、本人や家庭だけの責任にして「親の育て方がダメなんだよ」と教育評論家ぶったところで子どもたちの苦しさは変わりません。もしそれが原因だとしても、それは我々教師にはどうすることもできない「変えられない原因」です。教師の仕事は、彼らが学校に馴染めない原因を「学校や教師が変えられること」の中から探り、一歩でも問題の解決に向かうことです。
「なぜ教室に入れない子がいるのか」…私たち教師がまず自覚しなくてはならないことは、「学校は、『正しいとされる行動』を『こうあるべき』と子どもたちに強いており、それが一部の子どもたちの重いプレッシャーになっているのかもしれない」ということ。そしてできることは「価値観の転換」です。
「みんなと同じにできない子」は特別なのか?
「あいさつ」を例にとります。教師が子どもたちに「大きな声であいさつをしましょう」と指導したその瞬間に、この学級では「大きな声のあいさつが正しい行動」という価値観が生まれます。と、同時に「大きな声であいさつしない人はダメな人」という判定規準も生まれます。すると、学級に存在する「どうしても大きな声が出せない子」…、例えばコミュニケーションが苦手な子や、場面緘黙の傾向がある子は、「自分はダメな人なんだ」と感じます。学級でも無意識のうちに、「あいさつできない人はダメな人」という空気が漂います。そのことを敏感に感じてしまう子は、教室に入れなくなり、やがて学校の門をくぐることさえできなくなってしまう…こんなことが教師の意識しないところで起きているのかもしれません。
「背筋を伸ばす」「宿題を毎日提出する」「授業中は席に着く」「ハイッと大きな声で返事をする」…もちろんどれも大切なことです。しかし、それがどうしてもできない子にとってはどれも高いハードルです。やがてその子は学級の枠から外れてしまいます。そういう子たちを私たちは、「特別な支援を要する児童」と呼びます。「特別支援学級」の子どもたちは、もともと「普通学級」とは別の枠の中にいます。それが下図のA学級です。
しかしもし、下図のB学級のように、学級の価値観が多様だったらどうでしょう。「あいさつはいろいろあっていい。頭を下げるだけとか、呟くような声とか…。大切なことは『あいさつしよう』と思うこと。それでも恥ずかしくできない時もある。そんなことを繰り返しながらあいさつってできるようになってくるんだよ」…こんな価値観が学級の中で共有されていたら、あらゆる場面で「できない子」たちが学級の中にちゃんと居場所を見つけられるはずです。
「スーツケース型」か、「風呂敷型」か
言わばA学級は「固いスーツケース」、B学級は「風呂敷」です。スーツケースには規格外や形がいびつな荷物はうまく収まりません。そのため、いったん外に出して別のケースに入れ変えることになります。でも「風呂敷」なら、どんな荷物でも包み込むことができます。A学級で外に出された子どもたちも、B学級ではみんなと一緒に包み込んでもらえます。どんな人間に対しても、風呂敷で包み込むようにその存在を認めていく…これが多様性です。
「スーツケースよりも風呂敷で」…これは、元大空小学校長の木村泰子氏の言葉です。この考え方で学習が進められる場面をイメージしてみます。
例えば算数の時間。文章問題に取り組んでいる子。計算ドリルを5問だけやっている子。100問プリントにチャレンジするグループ。難問に挑戦している子。友だちに問題の意味や解き方を教えてあげている子。前の学年の復習をしている子。先生にやり方を教えてもらっているグループ…。こんなふうに、子どもたちがそれぞれの力に合ったやり方で学んでいる…そんなワイワイした場なら「特別」と見なされていた子も、「個別支援」をしてもらう一人として教室に混ざることができます。特別支援学級の子も「交流」というお客様ではなく、学級の一員として学習活動に参加することができるかもしれません。
このような、子どもたちの自由を保証した学びの場は、学級を「風呂敷」にイメージすることで実現可能です。子どもたちを主体的に育てたいと願っている誠実な教師なら、誰もが実現したいと願う実践です。
「みんなと同じ」が大切にされた日本の近代教育史
しかしこれを実現することは、現実的にはこの国ではとても難しいことです。その難しさの原因は、「ひとクラスの児童数」です。40人近い子どもたちがいる学級で、バラバラに活動している子どもたちを、たった一人の教師で把握し、支援する…。これで質の高い教育を維持していくことは、並大抵のことではありません。信じがたいことに、我々中高年の子ども時代は、ひと学級50人の時代もありました。なぜこの国の教育は、こんな多人数で成立できたのか…。それは昔から日本人に根付いている「集団重視」の価値観に深く関係していると考えられます。
日本の教育は明治時代、「富国強兵」を実現するために、「みんなと同じ行動をとることができる人材を育てる」という目的で始まりました。その後、大正時代には多少の個性重視の動きもありましたが、昭和に入り、日中戦争、太平洋戦争に突入すると再び「お国のため」というスローガンのもと、「みんなと同じ行動が取れる人材育成」へと方向転換。戦争が終わって民主主義の時代になっても、「会社」という組織のために自分や家庭を顧みず、馬車馬のように働く人材が認められ、高度経済成長を実現しました。当時の学校教育は「みんなが同じ考えで同じ行動をとる」という秩序重視で進められました。だからひとクラスの人数がどんなに多くても「一斉学習」を主流とした教育が成立していたのです。いつの時代の教育も、その国の社会が求める人材を育てることが目的です。「個よりも集団、個別よりも一斉」という社会の価値観に応えるために、この国は「スーツケース型の教育」をここまで進めてきました。それがいつしか多くの日本人の教育観となり、学校のみならず、社会でも、スポーツ界でも、人材育成の中心的な考え方になってしまいました(パワハラ、セクハラが日本の社会からいっこうに無くならないのもそのせいかもしれません)。
これからの時代に必要な新しい教育観とは
しかし今、時代は大きく変化しています。だとしたら教育も大きく変化するべきです。「何が起こるか分からない予測不能」な今の時代に、「みんなと同じ」という主体性を欠いた人材育成は、そろそろ終わりにしなければなりません。子どもたちには「自ら考え、選択し、判断し、そして自分の行動を自分で決定する」力を身につけさせなければなりません。ひと学級の児童数は改正されつつありますが、それに先立って教師がまず、「子どもはこうあるべき」という二分割思考を脱し、子どもへのリスペクトを重視した教育にパラダイムシフトしておかなくてはなりません。
スペインサッカーリーグのプロチーム・ビジャレアルの育成コーチを務め、現在Jリーグ常任理事である佐伯友利子氏は、子どもの未来を拓くサッカー指導者が意識しなければいけない心得を、次の3つにまとめています。
・子どもを否定しない ・子どもをジャッジしない ・子どもを攻撃しない
教師も同じです。「そんなあいさつじゃダメ!」「あいさつもろくにできない子はダメな子」「黙ってないであいさつぐらいちゃんとしろ!」…教育界に根差す「こうあるべき」思考は、実は子どもを否定し、子どもを都合良くジャッジし、感情的に子どもを攻撃しています。あいさつの形にこだわる前に、「自分自身はちゃんと他人をリスペクトしたあいさつができているか」と振り返ってみるべきです。
ちなみに職員室だって、いつも気持ちの良いあいさつが返ってくるわけじゃありませんよね。あいさつしても返事がないことだってしばしば…。だって朝はみんないろいろ忙しくて、のんびり入ってきた校長に気がつかないことだって普通にありますよ。それぞれ事情があるんだから仕方ない。実は子どもだってそうなんです。子どもなりにいろいろある。まずは子どもの視点に立って、子どもが見ている景色を一緒に見る…これができれば、一部の子だけに使っていた「特別」が、実はみんなそれぞれ「特別」な存在だったと思えるかもしれません。
※参考文献
○学校の未来はここから始まる(教育開発研究所)
木村泰子(大阪市立大空小学校初代校長)
工藤勇一(千代田区立麹町中学校 元校長)
合田哲雄(文部科学省)
○教えないスキル~ビジャレアルに学ぶ7つの人材育成術~(小学館新書) 佐伯友利子 著
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