短編小説『緑茶ハイ』
「なんで彼氏がいるのにまだそんな男と会ってるの?」
カシスウーロンを飲み干し、化粧を始めたハルに私は考えられないというような顔を向け、軽蔑してそう言った
大学4年の夏の終わり、私とハルは何度も通っているいつも騒がしく小汚い居酒屋で、就職活動を終えたお祝いをしていた
ハルは急に男に呼ばれたらしい。私の知らない男だ
「だって好きなんだもん。体の相性も彼氏より良いし、一緒に居て楽なんだよね。割り切りって大事よ、大事」
ハルはイヴ・サンローランのリップを丁寧に唇に塗りながら、まるで私が見当違いな質問をしたかのようにそう答えた
口を開けたまま話しているからか、その発言がとてもマヌケに思えた
「トシオのこと好きじゃないの?それに、彼氏じゃない人とセックスするなんておかしいよ、良くないよ」
「トシオも好きだよ、ちゃんと。逆にカンナは彼氏だけと会ってて飽きないの?ちゃんとやることやってる?」
ちゃんと。という歯切れが悪い言葉の意味を、私は聞かなかった
「飽きるってなに?好きな人と一緒にいて飽きるわけないじゃん」
私は自信無くそう答えた
テーブルの上に置いてあるハルのスマホの画面が光り、ハルはそれを見るなりすぐに消した
「まだまだカンナは子どもだねー」
ハルはリップを塗り終え、財布から2000円を出してテーブルの上に置いた
「たくさんいろんな男とセックスするのが大人なの?」
ハルは呆れたように私を見て、マルジェラの甘ったるい香水を一振り首に纏った
こいつには何を言ってもダメだ、これこそ馬の耳に念仏だ、そんな目だった
「んじゃっまた飲もうね!カンナも遊んだほうがいいよ〜、ちゃんと花には水やらなきゃ、枯れちゃうよ?」
私にそう笑顔で言ったかと思えば忙しなく席を立ち、すぐにスマホの通話ボタンを押してトシオではない別の男の声を右耳に受け止めながら出ていった
耳に当てたスマホの裏面には、ハルとトシオがツーショットで写るチェキが透明のスマホケースに挟まっていた
「水をやりすぎるのも花に悪いのに」と、ハルが置いていった1000円札に印刷された野口英世に向かって言った
その言葉は隣の宅で数年前に流行った飲み会のゲームをしてはしゃぐ大学生達の声と、タバコの煙たい空気と、甘ったるい香水の匂いに揉み消された
・・・・・・・・・・
私とハルは大学のサークルで知り合い、すぐに友達になった
お互い田舎から東京に出てきたこと、一人暮らしの家が近かったこと、女子校出身だったこと、辛い食べ物が好きだったこと、そして彼氏ができたことが無いという共通点があった
学部も同じであったため、履修する授業も休みの日も同じで、いつも一緒に行動していた
そして大学2年の夏に私はダイスケという同じダンスサークルの先輩に告白されて付き合うことになった
ダイスケ先輩が私に気があるらしい、という噂をハルから聞き、単純だった私はその日からダイスケのことが気になり始め、結局好きになった
一つ年上の先輩、という響きだけでありがたい物のように思った私は簡単に騙されたのかもしれないが、その虚像も私にとっては心地が良かった
驚くことにハルも同じぐらいの時期にサークルの同期と付き合うことになったらしく、私たちは2人でお互いをお祝いした
そのハルの彼氏が、現在進行形で浮気されているトシオだ
処女であった私たちは性に関する知識なんて映画か小説でしか得たことが無く、いつその時が来るか心待ちにしていた
処女を捨てることに不安にならなかったのはハルがいたからだし、周りの女子が平気でセックスの話をするのが億劫で耐えられず、早く私も彼女たちの話題に混ざりたい、ある意味での『オトナの女性』になりたいと思っていたからだ
むしろ、さっさとそんなもの捨てちゃいたいなんて考えていた
まだ経験が無い私を、鉄のパンツだと周りの女子はもてはやしたが、私からすればそんな鉄はとっくに錆びていて、ただのガラクタの重荷ですらあった
初めてダイスケとした時、率直に思ったことは「こんなものか」という期待が外れた虚無感だった
幸福感があるわけも無く、得られたものは黒いベッドシーツに付着したシミの冷たさだった
もちろん、オトナの女性になった気もしなかった
その時ダイスケも私が初めての相手だったらしく、私たちは暖房の暖かい風が弱く流れ込む私の狭い部屋に置いたシングルベッドの上で、手探りでだらだらとムードもクソもないセックスをした
経験が無いのはお互い様なのにダイスケは先輩というプライドがあったのだろうか、常に主導権を握ろうとした
なぜ照明を真っ暗ではなく常夜灯の淡い光りにしたがったのか、なぜブラを片手で外そうとするのか、なぜ私の陰部を舐めながら顔をチラチラと見てくるのか、なぜ様々な体位をしたがるのか、なぜ尻を叩くのか、なぜ初めてなのにベッドからすぐ手が届くところにコンドームがあったのか、私はその時不思議でならなかったが、今思い返してみるとその時のダイスケが可愛く思えてきた
しかし「気持ち良い?」と何度も聞いてくるダイスケは、一度も「大丈夫?」と私の心配をしなかった
ダイスケは全身に汗をかいていたが、私は腿の裏が少し汗ばんだだけだった
ことを終え、ダイスケは満足したように横で寝ていたが、私は顎の痛みとジンジンとした股間の違和感を感じながら、着け損ねてベッドの下に放置された奇妙な形のコンドームを眺めて、子供の頃に作った不恰好なかまくらを思い出した
テーブルの上に置いたグラスの中の氷が溶け、潤いを持った寂しい音が狭い部屋に響いた
私はまた同時に、その音が錆びた鉄が割れた音のように聞こえたのを覚えている
・・・・・・・・・・
ダイスケとは今でも交際を続けてはいるが、それは交際した当初から比べると匂いも色も味も無い、つまらない付き合いになっていた
大きなケンカが無ければ特別愛が深まる出来事も何も無かった
ドライヤーで私の髪を不器用に乾かしてくれる時間は、ダイスケにも秘密にしていた私の大好きな時間だった
最近髪の毛の艶が良くなったことは、その大好きな時間さえも無くなったからかもしれない
今では私たちは月に1度か2度私の家で会い、適当に映画を観て美味しくもないお酒を飲んで、寝て、次の日の昼過ぎに「じゃあまた」と言って目も合わせずバイバイするだけだ
つい最近2年記念日を迎え、私たちはまるでそうすることをプログラムされた機械のように、散らかった部屋で中身が無いお祝いをした
と言っても、ハーゲンダッツを食べただけなのだが
「これからもよろしくー」と、彼は私の目を見ずに言った
ダイスケから好きと言われなくなってもう3ヶ月は経つが、言わないダイスケに腹が立つことはもうすっかり無くなり、むしろ3ヶ月という期間を覚えている私自身に嫌気がさした
最後に好きと言われたのは確か正常位で彼が果てる寸前だった
付き合いたての頃は電話越しや、私が料理をしている時、夜一緒に眠る時、映画を観ている時、いつも好きと言ってくれた
その数は徐々に減り、最終的にはセックスの時にしか好きと言ってくれなくなった
そしてその『ムード作りの為の、好き』も無くなった
私たちは確実に倦怠期を迎えており、お互い面倒臭がりの性格からかその現状に気付いていながらも特に気持ちを確かめることもせず、定期的に会ってはいつもと同じようなセックスをした
それは音楽を再生した時にAメロ、Bメロ、サビが必ず同じテンポで来るように、いつものキス、いつもの愛撫、いつものコンドームで、いつも同じ流れの、同じ長さのセックスだった
少し前から変わったことといえば、彼氏がたまにゴムを着けなくなったことと、絶頂を迎える時の体位が正常位ではなくバックになったことぐらいだ
でも私はまだダイスケが好きだった
好きだが、物足りなさは確実にひしひしと感じていた
そして同様に、その物足りなさをダイスケに伝えるとなんだか私が重い女みたいになるんじゃないかと危惧し、いつも居心地が悪いダイスケのペースに合わせて付き合っていた
ハルも同じくトシオと交際を続けていたが、私達と違うのはハルはトシオに対しての熱がとっくに冷めきっており、逆にトシオの方はいまだにハルに対しての好意が日に日に増しているようだった
ダイスケとトシオを交換できたらな、と何度かありえもしない妄想をしたが、やはりダイスケはダイスケでしか無く、好きと言ってくれないダイスケもやはり私は憎めず、好きだ
さっさと別れちゃえば?
そんな状態で付き合ってて楽しい?
カンナにとって良くないよ
せっかく学生なんだし遊んだ方がいいよ
ダイスケだって絶対浮気してるよ
全ての言葉を受け止めて、考えて、涙を流したが、やはり私はダイスケが好きだ
そしてそんな自分が少し嫌いだ
・・・・・・・・・・
ひとり、ハルが置いていった2000円を眺めながら私は緑茶ハイをゆっくりと飲んだ
ハルは今ごろ先ほどの電話の男と会い、酔ったふりをしてその男の腕にしがみつき屈託の無い笑みを浮かべているのだろう
どうせその相手は、本命の彼女には0.02mmの良いコンドームを使うのに、ただのセフレには3箱1000円の激安コンドームを使うようなクズ男だろう
かわいそうなハル、かわいそうなトシオ
私は軽蔑しながらも、「好きだから」という単純な理由で彼氏以外の男との遊びを繰り返すハルの無慈悲で健気で放逸的な自由奔放さを少し羨ましく思った
その時、ダイスケからラインが来た
「今から家行っていい?」
私はすぐに「いいよ」と返し、念の為、「でも今日生理だよ?」と付け加えた
既読になったまま、しばらくしてもダイスケからの返事は来なかった
電話をかけてみると、誰かと通話中だというメッセージが表示された
すみだ水族館でダイスケと撮ったブレたツーショットが写るスマホに、ため息を吐いた
緑茶ハイを飲み干し、もう一杯注文した
この店の緑茶ハイはいつも苦い
空いた緑茶ハイのグラスの中の氷が溶け、あの時みたいな音が響いた
つづく、かも
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