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自分の色眼鏡に自分で色を塗っていたこと

 無銘さんとのスペースで聞いたお話の残響が心に響いています。

 無銘さんのお話で今も私の心に残響として響いているのは、「悟りが必ずしも善い結果だけをもたらすものではない」という内容です。

 仏教に関心がない方には想像が難しいかもしれませんが、仏教において「悟り」というのは善なるもの、仏教徒として目指すべきもの、達成すべきものと捉えられています。
 今までは私も仏教徒として素直に(無邪気に?)悟りをそのように捉えていました。

 しかし、無銘さんは御自身の体験から、必ずしも悟りが善い結果だけを招くものではないのではないか、とお話されました。上記の記事にも書きましたが、自分の悪い部分だけではなく、自分が大事に思っていた部分まで書き換えられた感覚を味わったからです。

 無銘さんから聞いたお話は私に衝撃を与えました。
 衝撃だったのは「悟りは絶対的に善であるとはいえないかもしれない」ということだけではありません。もちろんそれも衝撃的でしたが、そのことを感じたことで遡及的に私が「悟りは絶対的に善である」と「信じていた」ことが分かったことも衝撃的でした。

 「信じていた」という表現をするのは、「悟り」の意義や効果について私がきちんと考えて「悟りは善である、目指すべきものである」と考えていたわけでなく、「経典に書かれていたり、お坊さんが善いと言っているものだから善いに違いない」という判断で「悟りは絶対的に善である」と思っていたに過ぎなかったからです。

 上座部仏教では「カーラーマ経」という非常に有名なお経があります。
 お経の内容は簡単に言うと何が正しいかということは人の言っていることを鵜呑みにするのではなく、自分で確かめてから判断しなさい、という教えです。
 そのお経の中でお釈迦様が例示されていることの中に

・自分たちの聖書や教典に書いてあるからといって頼ってはいけない
・説くものが立派な姿かたちをしているからといって頼ってはいけない
・説いた沙門が貴い師であるというような肩書などに誤魔化されてはいけない

 とあります。
 私は教義上悟りが善いものだとされているから、そしてそれを説くのが立派なお坊さんだからという理由で「悟りは絶対的に善だ」と思いこんでいました。お釈迦様が戒めていた内容に私は正にハマっていたのでした。

 仏教では自ら確かめることを重視します。
 例えば経典などで教えが説かれていても、それが確かにそうであるかを自分で確かめることが推奨されます。
 瞑想実践も確かめる手段の一つで、瞑想を実践することでカーラーマ経で言われているような自分が無根拠に信じている思い込みを解体していく効果があります。
 例えるなら、自身が付けていた色眼鏡の色を落とす作業が仏教実践です。そして私は自分が色眼鏡の色を落とすのではなく別の色を塗っていただけであったことに気づいたのです。
 
 自分が気づいていなかった思い込みについて、全く予想していない角度から気づかされた一件であったため、その残響が今も私の心に残っています。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!