「受け入れられたい」という渇き
この記事はかなり情けない内容になる。読んでいて不快になる人もいるかもしれない。そういう人は不快になった時点でどうか読むのをやめてほしい。
私にとって大きな気づきであり、自分の心の恥ずかしい点に気付いたからそれをnoteに書こうと思って書いている。
おそらく多くの人にとっては関係のない話だが、もしかしたら私の文章から気付きを得る方もいらっしゃるかもしれないと思い、文章を綴る。
何年前だったか、仲の良い友人の結婚式に呼ばれた。
その友人はとても独特の感性、着眼点、価値基準を持っていて、その友人の言葉はたびたび私の心に刺さり、気づきをもたらしてくれていた。有り体に言えば、私はその友人を好きだった。その友人は女性だった。
その友人を好きだったと言っても、私は特に積極的にアプローチもしておらず、完全な片想いであった。だから相手には気づかれていなかったのだろう、私はその友人の結婚式に呼ばれた。
友人の結婚式には行かねばなるまい。若干辛かったが、自分の心にけじめをつけるためにも招待された結婚式に参列した。
結婚式の途中で、新婦であるその友人のスピーチがあった。おおむね以下のようなことを話していた。
「自分(その友人)はマイペースとか頑固だと周りから言われていて、それは自分でも自覚があったので直そうとしていた。でも○○さん(旦那さん)はそれを自然に受け止めてくれた。肯定してくれた。それがとても不思議だった。
また、今までは誰かと一緒になったら自分の大事にしているもの、守っているものが失われると思ってた。一人の時間も邪魔されると思ってた。でも、○○さんと一緒に居ると、どちらも両立できている。
あれかこれか、ではない別の道があるのかもしれないと思った」
これを聞いて、私はその友人は旦那さんと付き合うことで大きく変わったんだなと思った。それは、友人の弱いところや自分で嫌だと思っていることを旦那さんが肯定し、受け止めたからだろうと思った。
そして、旦那さんのその役割は、たしかに私では無理だったことが痛感させられた。「友人の運命の人はこの旦那さんだったんだな」と分かってしまった。
また、旦那さんの友人のスピーチで、旦那さんがどれほどその友人を好きで努力してアプローチしたのかという逸話を聞いて、なおのこと「友人に相応しい相手はこの旦那さんだ」と思い知らされた。
そして(ここからが本題なのだが)、このとき私はもう一つ強く感じていたことがあった。それは「なんで俺にはそういう人がいないんだろう」ということだった。
「そういう人」というのは友人にとっての旦那さんで、つまり「自分が嫌だと思っているところをそのまま肯定して受け入れてくれる人」のことだ。
恋愛を主題にした創作物にはよくそういう類型がある。
主人公、またはヒロインに自分自身の嫌いな部分がある。それを相手が受け入れてくれることでその主人公なりヒロインも自分自身を受け入れることができるようになり、変わっていく、というストーリーの形だ。
私は主人公やヒロインに、自身のありのままを受け入れてくれるパートナーが現れて結ばれてハッピーエンドという物語は好きである。やはり物語はハッピーエンドが良い。現実はそうじゃないんだから、せめて虚構の世界くらいはハッピーエンドが良い。
だけど、そういう物語を享受するとき、やはりいつも思うのだ。
「どうして私には私のそのままを受け入れてくれる人がいないんだろう」
私が今まで好きになった女性は、みな私に少しく好意的な人だった。私は今まで「俺は自分を好きになってくれる人を好きになるんだなぁ」くらいに思っていたが、上記のことを踏まえると実はもっと違う理由が見えてくる。
要するに私は、「私のそのままを受け入れてくれる(ように思える)人」を好きになるのだ。より正確に言えば、「好きだと勘違いする」のだ。
では、逆に私は誰かのありのままを受け入れたことがあるだろうか。
答えは「否」だ。
私は、本当の意味で人を好きになったことがないのだろう。「私のそのままを受け入れてくれそうな人を好きになる」というのは、相手のことを見ているわけではない。自分のことしか見えていない。自分が受け入れてもらうことしか考えていない。
相手の人柄や、相手との関係性の積み重ねといったもので相手を好きになるのでなく、自分の求める理想を相手に押し付けているだけ。それを私は「好き」だと勘違いしていただけだった。
「誰かに私のありのままを受け入れられたい」と思うということはそもそも、「私はありのままを受け入れられていない」と感じているということである。では、私自身は私のありのままを受け入れているのだろうか。
これも答えは「否」である。
私は日頃、自責癖、自虐癖、自罰癖があり、とかく自分を否定しがちである。タイのスカトー寺で修行したことで大分マシにはなったものの、完全には払しょくできていない。ふとした時にすぐ自分を否定してしまう癖が出る。
仏教的には、「自分のありのままを受け入れる」というのを外(他人)に求めるのではなく、自分自身が受け入れることができるように精進しましょう、ということを勧められるだろう。
私はその方向で歩めるように精進しているつもりだが、まだまだ未熟で、ときに猛烈に自己否定の念が生じてきて、非常な寂しさに身動きがとれなくなるときがある。
仏教とは別のアプローチもある。キリスト教だ。
信心深いクリスチャンの方々はどこか安らぎをその振る舞いから感じる。それはおそらく「私は神に愛されている」という実感があるからだと思う。
信心深いクリスチャンの方々は、「神がいる」ということを「目の前にコップがある」と同じくらいの存在感を持って実感されるそうだ。そしてまた、その「実在する」神が「こんなに罪深く、愚かな自分を愛してくださる」ということも同じくらい現実味を持って実感されるという。
私にその境地は想像すらできないが、もしその実感が得られるなら、私の「私のありのままを受け入れてほしい」という願いは、神の愛によってかなえられるだろう。
だが、今の私は事実として、「受け入れられる」という実感を内にも外にも見いだせていない。
というか、そういう願いがあることすら気づいてなかったのだ、最近まで。noteの記事を書くために過去の日記を読み漁っていたところ、「受け入れられたい」という思いが何度も繰り返し書かれていたので、「あ、そういうことか」とようやく気付いたのだ。数日前に。それで急にnoteに書こうと思ったのだ。
「自分が自分自身のありのままを受け入れる」という道筋が私にとって一番現実的に思えるが、なかなかすぐにはできそうにない。
亀の歩みだろうが少しずつ精進していこう。そうすれば、いつか本当に「人を好きになる」こともできるかもしれない。
本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!