聞こうとする気になれない話し方をする人の話を聞こうとする努力
タルイタケシさんの以下のnote記事を読んで深く考えさせられました。
記事の中では「意見を述べる時はその内容の正否だけでなく、意見の述べ方(伝え方)も非常に重要である」と述べられていました。
記事では藤井聡さんの『人を動かす「正論」の伝え方』という著書を参考に、意見の組み立て方・述べ方を以下の7つの観点で述べられています。
①最初の「つかみ」を大事にする
②キャッチーなフレーズを立てる
③数字を適切に活用し、説得力を持たせる
④対立論の「間違い」を公衆にさらす
⑤比喩を使ってわかりやすくする
⑥対立する論を相対化する
⑦相手に過大な期待をしない
この記事を読んでいて、自分自身が聞き手として振り返った時、たしかに①~⑥(⑦は伝え方というより伝える側の心構えなので一旦置いておいて)を押さえた伝え方をしている人の言うことに説得力を感じるな、と思いました。それは、①~⑥の逆の伝え方をしている人を想定するとよく分かります。
何の話をしているのか分からない始まり方をして(①)、特に目を引くフレーズも用いられず(②)、根拠となる数字はなく印象だけで話されて(③)、対立する意見に対する検討もなく(④、⑥)、比喩は使われない(⑤)ような話し方をされても、その人の話に説得力を感じないでしょう。
仮にその相手が真っ当な意見を述べていたとしても、その意見の内容を精査するより以前に、聞こうとする姿勢にならないと思いました。
当該記事では最後にこのようにまとめられていました。
そしてそれまで記事の中で述べられている通り、正論というのはその論の中身以上に伝え方が大事なのだ、ということです。
と、ここまで読んで「では、ここで述べられている効果的な伝え方ではなく、伝わりづらい意見の述べ方しかできない人がいたとして、その人が弱者であった場合、その人の正論はどうやって社会に伝わるのだろう」と思いました。
つまり、①~⑥の話し方ができない弱者がいた場合、その弱者の意見は、まさに「伝え方が悪い」せいで誰にも聞かれないのではないか、と思ったのです。
私がそのように思った時に頭に浮かんだ人々がいました。それは(言葉が悪いですが)「学が無い」人々です。
①~⑥の伝え方ができる人を想像した時、その人たちは非常に理知的で学のある人々が想像されました。
例えば「③数字を適切に活用し、説得力を持たせる」という話し方はデータに強くないとできません。話題に関係するデータを知っているという知識力、そしてそのデータを話題に即して適切に提示できる論理的構成力も必要です。
他にも「⑥対立する論を相対化する」という話し方は非常に高度な思考力が必要になります。まず自分の意見の対立する意見を想定する想像力が必要です。そしてその意見と自分の意見を比べ、対立する意見のどこに論理の破綻があるかを理解し、その破綻を自分の意見がどのように補うのかということも把握したうえで、それを相手に伝える力が必要になります。非常に高度な論理的思考力が必要になります。
こうした話し方は誰でも使えるものではなく、ある一定以上の教育を受けた人か、もともと話術において天才的な才能を持った人でないと難しいと感じました。
例えば、十分な教育を受けられず、そのため正規雇用の仕事が得られず、日雇いの仕事で食いつないでいる「社会的弱者」の方を想像してみます。その方は間違いなく「弱者」の立場にいますが、その方が社会に物申すための正論を伝えるにあたり、上記のような適切な伝え方ができるかというと、なかなか難しいのではないでしょうか。もしかしたら、そもそも社会に物申すための意見自体を考えることも難しいかもしれません。
タルイタケシさんがおっしゃるように弱者が強者に立ち向かうための武器としての正論という観点には非常に同意します。しかし、同意するがゆえに「本当の弱者の声はまさにどこにも届かないのではないか」と思ってしまいました。つまり「①~⑥の伝え方ができる人はそもそも弱者でないか、あるいは弱者の中でも特別優秀な人なのではないか?本当の弱者は①~⑥の伝え方ができないがゆえに自分の意見を聞いてもらえず、だからこそ弱者という立場から変わることができないのではないか?」と思ったのです。
もしそうであるなら、私にとって重要なのは、私が自分の意見を①~⑥の伝え方に則って伝えられるように努力すること以上に、①~⑥の伝え方ができない人(もの)の声をちゃんと聴こうとする努力だと思いました。
タルイタケシさんの記事を読むことで、改めて私の傾向や私が向きあうべき方向がより明確になり、勉強になりました。タルイタケシさんありがとうございました。
本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!