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自己受容の芽生え

 私は自分を見てもらいたい、という欲求を強く持っていることに気づきました。見てもらいたい自分とはどんな自分なのか?誰に見てもらいたいのか?そういったことを自分の心に問いながら言語化を試みてみます。

 

 私はnoteの記事に好意的な反応をいただけるのが非常に嬉しいです。
 私にとって私が書いたnoteの文章群は私らしさが十全に表れた表現物である、という感触があります。それらを読んでもらえるということは、私の思う私らしさが他者に見てもらえたということであり、それらが好意的に受け止められると言うことは、私自身が他者によって好意的に受け止められるということです。そのことに私は非常に大きな喜びを感じています。
 そのことは逆説的に、私が「自分らしい私を見てもらいたい、受け入れてもらいたい」という欲求を強く思っていることを示しています。「見てもらいたい、受け入れてもらいたい」という欲求が強くあるからこそ、その欲求が満足された時に非常に大きな喜びが生じるのです。

 しかし「見てもらいたい、受け入れてもらいたい」という欲求が強く生じると言うことは、「見てもらっていない、受け入れてもらっていない」という不満を日頃覚えていることの裏返しでもあります。そういう不満に心当たりがあります。
 noteで書いているようなことは、仕事の上で全く必要のない思考群ですので、仕事上でそれらの考えを話すことはありません。仕事に限らず、noteで書いているようなことは、ある程度深い仲にいる相手でないと話すようなことではないので、リアルの付き合いにおいて私が「私らしさが十全に発揮されたもの」を表現する機会は多くはありません。(ただし「多くない」だけで、全く無いわけではない)

 では、私は「自分らしさ」を見てもらいたいのは誰でも良いのでしょうか。そう内省してみたときに「いや、誰でも良いわけではない。親に見てもらいたい」という気持ちが真っ先に浮かびました。そしてその気持ちを見たときに「そうだよな」という感想も抱きました。

 私の親、特に父は私と全く違う価値観を持っています。
 私は内向的で、自分の内面世界に興味を強く持っています。私が書くnoteもほとんどが私が何を考えた、何を思った、何が好きだ、と言ったことばかりで、私の内向的な気質が現れています。
 父は私とは逆で、外の世界に働きかけること、社会とどのような関わりを持つかということを重視しています。特に政治や国際情勢といったものに関心が強かったので、たぶん最近はイスラエルとパレスチナの問題が最大の関心ごとだと思います。最近話してないので分かりませんが。
 そして私はそうした話に全くと言って良い程興味を持てません。実家で暮らしていた頃から、父は私が外の出来事に関心を持たないことを批難していました。
 ついでに父は宗教が大嫌いです。私が上座部仏教を勉強し実践するようになり、その良さを父に語ったことがありますが、鼻で笑われてあしらわれました。
 私は父には人として尊敬すべきところがあると思っていますが、それはそれとして価値観の根本的なところが決定的に違うので、非常に相性が悪いです。

 「見てもらえていない、受け入れてもらえていない」という不満を覚える私の原風景には、父に見てもらえていない、受け入れてもらえていない、という体験があるようです。

 では、私が「見てもらいたい」と思っている一番の相手は父でしょうか。そう思って自分の心をもう少し良く観て見ると、違う答えが出てきました。それは、私が見てもらいたいと思っている相手は「私自身」である、という答えでした。
 それは言い換えると、「見てもらえていない」と思っている相手が私自身であると言うことであり、さらに言えば、私自身が私の私らしさを見ておらず、受け入れていないということでもあります。

 なぜ私は自分自身を見ていない、受け入れていないのでしょうか。それは、私自身が私の嫌っている「父の価値観」を内面化しているからだと気づきました。
 先述の通り父は社会とどう関わるかを重視します。もっと言うと社会の中で上手く機能する人間を評価しています。その価値観からすると、私のように自分の心を見ることに熱中して社会に関心を向けない人間は評価の対象にありません。
 私はそのことに不満を覚え、かつ反発してきましたが、それでもその価値観を内面化してしまっていました。なぜか。それは、父に認めてもらいたかったからです。

 自分と父の価値観がまるで違うことは、昔から薄々気づいていましたが、それでも私は父が好きでした。そして好きな父に認めてもらいたいと思っていました。そのためには父に評価される人にならないといけません。私らしさを認めてくれない父に反発を覚えつつも、それでも父に認められるために父の価値観を知らず内面化していたのです。
 父の価値観を内面化していたことは、この記事を書くために内省して気づきました。内面化していたことにさえ、私は今まで気づいていませんでした。
 私の中の「内面化された父」が、私が「私らしさ」だと感じる特性を全て無価値なものだと切り捨てていたようです。だから私は無意識に私の「私らしさ」を見ようとせず、評価してこなかったのです。
 私を常日頃、一番近くで否定し続けていたのは、他ならぬ私自身だったのです。だからこそ、私は私自身に「見てもらいたい」「受け入れてもらいたい」と強く願っていたのです。


 この一連の気づきは私にとって非常に衝撃的でした。そしてこのことに気づけた時、私の中のしこりが一つ溶けたような、力みが取れたような感覚がありました。

 こうした気づきが得られたのは、一つにはやそらさんとのスペースで得た気づきが大きいでしょう。あの時に自分自身を貶める心に気づき、その心と向き合おうという覚悟が持てたことが大きく影響しています。
 また、松葉舎の授業で「見てもらいたいという欲求」が自分の中にあることが気づけたのも大きいです。あの時、自分を貶める心について、より広い視点で見つめ直すことができ、気づきを深めることができました。
 
 そして一番大きいのは、私のnoteの文章を多くの方々が読んでくださり、好意的な反応を返してくださったことです。
 私がnoteを書き始めてからずっと、私は「私らしさ」をずっと文章として表現してきました。初めはそれが「私らしさの表現」と思っていませんでしたが、しかし心のどこかでは私らしさの表現だと理解していたようです。それを多くの方々が読んでくださり、時に好意的な反応を返してくださったことが、私に「私らしさを受け入れられている」という安心感を与えてくれていました。
 私が無意識に無価値だと切り捨てていた「私らしさ」を読者の方々に受け入れてもらえたことで、「私らしさも価値あるものなのかもしれない」という思いを芽生えさせてもらえました。私に「受け入れられる」という体験をさせてくださった読者の方々に深く感謝いたします。

 今後は、noteはより一層自分自身のために書こうと思います。
 以前から、noteの一番の読者は私だと思ってはいましたが、今回の気づきでそれがより明瞭になりました。
 私が一番受け入れて欲しいのが私自身であるなら、私らしさが十全に発揮されているnoteを一番に読んで欲しいのは私自身であり、かつ、一番読むべきも私自身です。
 私の思考や思いを摑まえて徹底的に言語化する。そしてそれをまず何より自分自身がしっかり読む。今後はそれをより徹底してやっていきます。
 それが私にとって、少なくとも今の私にとって必要な「自己受容」の方法です。

 

 今後は、私のnoteは自己問答の要素が強くなるかもしれません。もし、この私自身の自己対話にお付き合いいただける方がいらっしゃいましたら、これからも私のnoteを読んでいただければ幸甚です。