【長編小説】(50)青く沈んだ夜明けの向こう
中村は物静かで、いつも教室で飛び交うどうでもいい会話の外側にいて、日本人形のような黒髪が印象的な勉強のできるやつだ。いつも小テストでは100点を取り、授業で教師に当てられて答えられないことはないし、この前の中間試験では学年1位だった。
どう見ても社会人ではない。佐藤と同年代に見える彼女がなぜここにいるのか疑問に思い、たまたま会話をする機会があったときに訊ねたら「不登校だったから」と呟いた。
彼女の学力なら良い高校に行けただろうに、みんなと同じ時間に同じように学校に行けなかったというだけで上昇気流から転落してしまうのか。せっかくの能力を右に習えをできないだけで無価値なものと投げ捨てるのかと思ったら、社会に対しての苛立ちを覚えた。彼女がここにいることは理不尽だと思った。
思ったのでそのまま言葉にしたら、彼女は少し恥ずかしそうに顔を伏せて、「ありがとう」と言った。俺と彼女が話したのはそれっきりだ。同じクラスだからこれからもっと話すことがあるだろうが、現時点ではこれだけなので、読んでいた本を机の上に伏せてこちらに近づいてくる中村の姿に俺は少し緊張した。普段接する機会のない人間に対して抱く、理由のない緊張だ。
「どうしたの?佐藤さん」
「さっきの会話聞こえてた?」
「うん、まあ……少し。黒川くんが恋してるって」
「そうそう。悪いんだけど、ちょっとあんたの意見聞かせてよ」
佐藤と中村は正反対の性格で、見た目で、集団での立ち位置で、普段あまり親しくしている様子はないが、なぜかたまに話すと仲がいいように見える。正反対だからこそ接しやすいことがあるのかもしれない。あまりにも自分と似ていないから、相手に無駄な期待をせずに済むとか。
「黒川くんが恋をしてて、でも好きない人にするようなこととか、恋人同士でするようなことができないって話……でよかったかな?」
本題に入る前にこちらへ前提条件を確認するのは何事にも効率的で無駄のない中村らしい。好ましいことだが、俺は訂正を入れる。
「別に、できないわけじゃねえ。やろうとしたことがないだけだ」
「強がっちゃって」
佐藤が茶々を入れる。
「強がってるわけじゃねえし」
「黒川くんは、その人とどうなりたいの?」
話題が逸れそうになったところを、中村がうまい具合に軌道修正にかかる。
「どうって、それは……」
あの世界に閉じこもっていては、いつか猩々のように壊れてしまう。このまま何もしなければ、子供たちと共に昼の世界に転がる石ころに成り果てたあの赤く焼けた世界と同じ道を辿ることは明白だ。手を講じなければならない。成り行き任せの現状を打破する、一撃を。
彼女が自分の願いを、あの世界の存在理由を思い出すのが第一だ。その上で、その願いを果たす意思を持ち、その意思のもと生きていかなければならない。猩々のように諦めてしまえば、世界はそこで終わってしまう。
でも、彼女が願いを叶えようと足掻いたとして、いつかそれが叶ったとしたならば、行き着く先はやっぱり彼女の死だ。それは石の中に永遠に閉じ込められるものではなく、いつかの死の続きであり、きっとその先には転生とか他の人生とかが始まるのだろう。悲しいものではない。生き物として生まれた全てがやがて辿る道だ。
しかし、ここに、それを受け入れられない俺がいる。彼女に生きてほしい俺がいる。それは、言わば死にゆく人の延命を望む、もう動くことのない身体を無理やり生かすための管を繋ぐ人間の心理だ。
「……一緒に、いたい」
あの明け方の世界とか、夕暮れの世界で見たこととか、昼の世界で知ったこととか、そんなことは当然こいつらには話せない。話したところで夢だ妄想だと一蹴されるのが関の山だ。だから結論だけ呟いた。「週6で一緒にいるのに?じゃあ同棲すれば?」とか佐藤が言うのを覚悟して。
しかし彼女は何も言わなかった。俺の言葉を困ったやつだと笑うものはなかった。ただ3人分の視線が俺に集まり、
「そのことを、相手の人には伝えたの?」
中村が静かに問うた。
「詳しくは言えないんだが、このままじゃ一緒にいられなくなる状況にあって、それをどうにかしたいってことは伝えた……と、思う」
「じゃあ、間接的に一緒にいたいってことは伝えたってことだね。相手は何て言ってたの?」
「無理だって。この状況は変えられないって、諦めてる」
「そんなに難しい状況なの?もしかして……難病とか?」
「そういうんじゃないんだが……そういう難しさだと思う」
「じゃあ、」
中村はいつも論理的で冷静だ。だから彼女が導き出す答えを聞きたくなくて、俺は遮り、
「でも、何か方法はあるはずなんだ。きっと、諦めなければ……」
けれど言葉は尻すぼみに。
中村が「うーん」と唸って、首を捻って、天井の隅の方に視線を動かす。彼女が難問にぶつかったときによく見せるものだ。ただ同じクラスだというだけで大した付き合いのない俺のことを真剣に考えてくれている。そのことがありがたくて、嬉しくて、申し訳ない。
ろくな情報もないままの思考はうまくいかないようで、大人顔負けの彼女の頭脳をもってしても解決策を導き出すのは難しいらしい。しばらく彼女が唸っているのを見届け、「もういい」と遮ろうと口を開いた時。
「まずは本人の協力が必要だね」
彼女の日本人形のようなまっすぐで真っ黒な髪が揺れた。
「1人で何とかできないことも、2人ならどうにかなったりするし」
中村がゆっくりと静かな声で言うと、
「あんたにしてはロマンチックなこと言うわね」
佐藤が柔らかい笑みを浮かべて茶々を入れ、
「なるほど。2人でなら何とかなる……」
木村が記憶のための反芻みたいに口ずさんだ。
「それなら、あんたの好きって気持ちを伝えるのが手っ取り早いわね」
佐藤が得意げな顔で言う。
「さっきから怪しいと思ってたんだけど、黒川、もしかしてあんた、その人に好きってちゃんと伝えてないんじゃない?」
「だから、これは別に恋とかじゃないんだ」
「馬鹿ねあんた。一緒にいたくて、一緒にいられなくなるのが嫌で、どうにもならなそうなことをそれでも解決して傍にいたいって、それ、恋以外の何ものでもないわよ」
「そんなこと……そん……そ、そうなのか?」
「あんた、もしかしてこれが初恋?」
中村がくすりと、木村は盛大の笑った。解せない。
「なら好きって伝える方法から伝授してやらないとね」
佐藤は2人の顔を見回して、中村と木村と一緒に頷き、俺に向き直る。
「あたしとしては、恋は押してなんぼよ。アタックあるのみ。好き好きって言いまくって、自然な感じでボディタッチを織り交ぜて、」
「それは男には難しいと思うぞ、佐藤」
「何よ木村。あんたにわかるの?」
「現役高校生ならまだしも、俺たちの年代の男にとってはヘタ打てば警察行きの危険な技だ」
「そうなの?じゃあ木村、あんたならどうする?」
「俺?俺は……そうだな……相手の好きなことをしたり、プレゼントをしたり……」
「モテまくって女なんて手のひらで転がしてそうな見た目して、平凡ね」
「悪かったなあ!だからお前の恋愛テクをご教授いただきたくてここに座ってるんだよ」
涙目になって切実な主張をする木村は大袈裟に見えるが、きっと彼なりの理由があるのだろう。ガタイのいい強面の成人男性が現役女子高生に軽くあしらわれている様は不憫としか言えないが、人のことをとやかく言える俺ではない。
どうにも2人の案がしっくり来なくて考えていたら、佐藤が「中村さんは?」と話を振った。
それは悪手だと思った。中村は不登校が理由でこの場所にいる。色恋沙汰はおろか、友達作りだって難しいかもしれない。不登校の理由の多くは人間関係だと、どこかで聞いたような気がする。
はっとして中村を見た。どこか瑠璃に似た感情の乏しい瞳と目があって、それが小悪魔的な微笑みを浮かべたことに驚いた。みんなに聞こえない「大丈夫」を唇の動きでこちらに伝え、また無表情に戻った。
「私は、相手の本当の姿を探すかな」
よくわからない中村の言葉に真っ先に反応したのは佐藤だった。
「本当の姿?」
「誰でも、人には言えない秘密とか、隠してる本性とか、あるでしょう?」
「ないわよ、そんなん」
「佐藤さんは裏表がないから、そうかもしれないけど。多くの人にはあるんだよ」
「そういうもん?」
「だと思うよ。特に、相手の気持ちに気づかないふりをして、理由も言わずに何かを諦めるような人はね」
意味ありげな表情をこちらに向ける中村は、きっと”俺の好きな人”のことを言っている。
「隠していることがあると、無意識のうちに他人と距離をとってしまうものだよ。だから佐藤さんにさえ気づかれるくらい好きな気持ちがダダ漏れの黒川くんに、何も言わないんだと思う」
「ちょっと、『佐藤さんにさえ』って何よ」
「ごめん、傷ついた?」
「べっつにー」
この2人の関係性がいまいち謎だ。
「それでね、黒川くん」
中村がこちらを向いた。やっぱりどこか、瑠璃に似ている。明け方の世界の、ダイニングテーブルの向かいに座る彼女を思った。
「隠しているのは、見られたらきっと嫌われると思うから。自分の悪い部分だから隠すんだよ。でも、それが悪いものなのはその人自身にとってだけで、他の人から見たらなんでもないことかもしれない」
「お、おう」
「だからまずそれを見つけてあげなよ。探し出して、陽の下に引っ張り出して、よく見て。それで、それを黒川くんが大したものじゃないと思うなら、それを理由にその人のことを嫌いにならないなら、心の底から、肯定してあげて」
「肯定?」
「うん。あなたは美しい。あなたは正しい。こんなものであなたの魅力は損なわれない。大好きだって」
いつも教室の端の席で本を読んでいて、俗世とは無縁みたいな顔をしている中村からこんな言葉が出るのは意外だった。色恋沙汰とは正反対の位置の、悟りの境地みたいなところに彼女はいるのだと思っていたから。しかしそれは俺の勘違いだったのだろう。俺のどうしようもなさを前に佐藤が真っ先に声をかけたのがその証拠だ。
「中村、お前……」
「何?」
「まるで、経験したみたいな口ぶりだな」
俺の言葉に、中村はさっきの小悪魔的な笑みを浮かべて、
「私は、元不登校の引きこもりだったからね。黒川くんの好きな人の気持ち、多分黒川くん以上によくわかる」
世界の秘密でも語るみたいに、俺だけに聞こえる声でそっと囁いた。
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