【長編小説】(48)青く沈んだ夜明けの向こう
はっとして、辺りを見回す。所狭しと並ぶ重厚な本棚の間には、変わらぬ静寂が流れていた。自分が現実での意識を失ってどれくらいの時間が過ぎたのか気になって、反射的に外を見た。図書館のような城の外はやっぱり青白い明け方で固定されていて、太陽の動きから経過時間を窺い知ることはできない。では時計はどこかと探したが、そういえばこの世界を訪れるようになってから、一度も時計を見たことがないと気がついた。
「玄、大丈夫ですか?」
向かいに立つ白が心配そうに首を傾げた。と言ってもこいつの上半身は黒い靄で霞んでいて、やっと見えるシルエットと声色から俺が勝手にそう解釈しただけだが。
俺は至って健康だ。「どれくらいの時間が経った?」と訊ねると、「結構たくさんの時間です」と曖昧を極めた答えが返ってきた。
「俺は……生まれた時から幸せじゃなかったんだな」
確認のために言うと、
「ええ。あなたが信じていた幸福な記憶は、偽物です」
白は申し訳なさそうに答えた。そして、「怒っておられますか?」と続ける。
「抜き取った記憶の穴を埋めるためのものが必要だったのです。ポッカリと抜け落ちているだけでは、人はすぐにそれに気づく。脳はうまくできていて、穴に気づいてしまえば元あったものを再現しようとする。結果、思い出してしまう。そこに記憶はないのに、同じものを新たに作り出してしまう。それを防ぐためでした」
「まるでお前がやったみたいな口ぶりだな」
「自分はやっていません。瑠璃にも、そのような特殊能力はありません。あくまでも常識離れしているのはこの世界そのものであり、自分も瑠璃も、ただ生きていないと言うだけで平凡な存在です」
つまり、ただ願っただけということか。願いが叶う、この世界で。
「生きていない平凡な存在、か」
白の仮面の隙間から発せられる黒い靄を前にして、思い出すのは猩々の世界で見たあの子供。子供の姿で神の存在を語り、黒い靄の塊と化した、おそらく子供ではなかったあの存在。
例えばあれがこの奇妙な世界を作り出す何者かだとして、それが子供の姿を借りて何かを伝えようと現れたのだとして、その意図はなんなのか。人の強い願いをして世界を成し、願いが消えると同時に当人を奈落の底へ叩き落とす。まるで卑しい化け物だ。幸が不幸に相転移する様を眺めて嘲笑う怪物だ。
瑠璃が幼い俺にしたことと何が違うだろう。嘘の幸福を偽って、その仮面が剥がれた時、嘘の前以上の絶望が訪れる。やっていることは神も彼女も同じこと。
違うのは、何もかもが俺にとっての夢となるよう、願った彼女の伏した瞳。
「例えそれが嘘であろうと、本物が現れなければ本物でいられるってわけか」
結局、そのもの自体に善も悪も存在しない。全てはそれを認識し、感じ取る者に託されているということだろう。
「おい、瑠璃はどこだ?」
きっと俺が彼女を責めようとしていると勘違いしたのだろう。問うと、白はピクリと背を伸ばして視線を彷徨わせた。黒い靄に覆われているが、こいつの真っ赤な瞳の色はよく見える。
「あの扉の向こうか?」
だだっ広い円筒型の空間の表面を這う、途方のない長さの階段の先。その行き止まりにある扉の方を、白はチラリと盗み見た。
「え?いや、あの……」
「図星か」
「あそこには、入らないでください。開けないで」
「なぜだ。あの向こうには何がある?」
「それは……」
白の言葉で確信した。瑠璃はあの扉は開かないと言っていたが、本当は開く。彼女が開けられないだけだ。猩々の世界で彼を救おうと奔走していた子供たちのように。
ならばきっと、あの向こうにはこの世界の根幹の記憶がある。世界の始まりに何があったか、あれを開ければわかるだろう。そうしたら何か掴めるかもしれない。この世界を、終わりから救えるかもしれない。
今すぐに階段を駆け上がりたい気分だったが、必死な声の白を前にそれを強行するのは憚られた。「少し考える」と言い残し、踵を返す。歩き出してから、そういえば白が抱えている誤解を解いていないと気づいた。
「あの、玄。瑠璃を嫌わないでください。嫌うなら自分を。彼女は何も悪くないんです」
「わかってる。……知ってる。あいつはいいやつだ」
「玄?」
「急に迷い込んできた見知らぬ子供の言葉に耳を傾け、何かをしたいと思うようなお人好しだ」
そう、わかっている。痛いほど。
「だから俺はあいつのために何かをしなきゃならないんだ。あいつがここにいるのを知ってるのは、俺だけだから」
あのネックレスを俺が持ってきた時、彼女はどんな気持ちだっただろう。俺があれを安物で無価値だと言った時、彼女はどんな顔をしていたか。そこに込めた願いを、思い出しただろうか。
彼女の願いはなんだろう。それを叶えるために、俺は何ができるだろう。そんなことを考えると同時に、願いの成就は俺たちの別れを意味するとに気づく。願いが叶えば彼女は元の輪廻に戻るのだ。ずっと昔の鄙びたバラック小屋で、孤独な最期を迎えた彼女の続きへ。
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