見出し画像

【長編小説】(終)青く沈んだ夜明けの向こう

向こうの世界を写していた水面が、流れ落ちる水流に引っ張られて渦を巻く。最後にボコボコと音を立て、シンクをいっぱいに満たしていた水は消えた。空っぽになったステンレスの表面には、もう”彼ら”の世界は写らない。

「それで、どうして僕は、この世界は壊れなかったんです?」

窓から差し込む透明な光が届かない部屋の隅、強い光の傍にできる深い闇の中にいる”それ”は、僕の問いに身体を震わせた。

「僕は願いを諦めた。姉さんと一緒にいたいという思いを果たそうと足掻くのをやめたのに」

黒い靄が人の形を作った。猫背で俯いたようなシルエットの頭部に、口のような穴が開く。

「あなたは、姉と共に居たいわけでは無かったのでしょう」
低く鄙びた声が言う。
「ただ共にありたいだけだと言うのなら、何者も受け入れず世界を閉じ、ふたりぼっちの世界を固持すればよかった話です」
「あの子供をここに放り込んだのはあなただ」
「しかし、成長した彼をここに迎えたのはあなたでしょう?」
揚げ足をとるような物言いに苛立ちを覚えたが、これを相手に憤ったところで何にもならないことを僕は知っている。だから口を閉じた。靄はつらつらと話し続ける。
「あなたは彼を迎え入れた。人はひとりでは生きていけないと知っていたから。ひとりぼっちの彼女に寄り添う者が必要で、死んでしまった自分にその役目は果たせないと自覚していたから。あなたの願いは、姉が幸せに生きること。死なないこと。一緒にいたいと思っていたのは、そうすることでしか彼女を繋ぎ止めることができなかったから」
顔のない靄だが、それでも訳知り顔をしているのは見てとれた。『お前は僕の何を知っているんだ』などと定型文を浴びせたいところだが、残念ながらこれは誇張なく僕の”全て”を知っているからタチが悪い。
「あなたはずっと、姉が幸せに生きるために、彼女を守ってくれるような存在を願っていた」

外を朝嵐が駆けていったのだろうか。家の中の全てがカタカタと揺れて、本棚から一冊の本が落ちた。白鯨。長く専門用語ばかりの物語が読む者の手を阻むこの作品を選んだのは、彼女が読み終わらないように。一度始めたものは最後までやり切るのが彼女の性分だから、読み終わらないうちはここにいてくれるだろうと思った。
本を拾い上げる。落ちた栞が挟まっていたページがわからなくて、裏表紙の内側に挟み込んだ。

「じゃあ、僕の願いは叶ったじゃないですか。姉さんを守る者が現れた。黒川玄はきっとやり通す。あの見た目で律儀ですから」
「それはどうかな」
不穏な神の啓示のように聞こえる言葉は、そうではないらしい。窓際に立つ黒い靄は、頭部に老人の顔を描くとその口角を持ち上げて見せた。
「幸せに生きると言うのは難しいことです。どんな幸福が直前にあろうと、一滴の憎悪で全てが覆されてしまう。どんなに長い幸福が続けど、最後の最後に悲しみに満ちれば過去はなかったものになってしまう」
「終わり悪ければ全て悪い、という話ですか?」
「その通り。だから青海白、あなたの願いは叶っていない。まだ夢は途中です」

靄はそれだけ言うと口を閉じ、光に溶けて消えた。
感覚的に外に出たのだと思った僕は早歩きで扉へ。勢いに任せて扉を開き、朝に満ちる世界へ踏み出した。
蒼い草原がサワサワと軽やかな音を立てている。透明な朝日で満ちた景色に浮かぶ幾千の雨粒が、太陽を浴びて宝石のように光を乱反射している。青くどこまでも続く空は少しだけ傾いていて、崩壊のひび割れを片隅に残す。黎明が壊れて朝が来た。これもやがて、崩れるだろう。
靄はどこにもなかった。世界の隅々までが光に満ちていた。ふと足元を見ると朝露が溜まった水面があって、向こうの世界を映す表面に迷路のような路地裏を歩く男女の姿を見つけた。

「ははっ、鳥居を探してる」

薄暗いビルの隙間を足速に進む瑠璃。その後ろをついていく玄の手には四角い包み。あれは何だろう。もしかして、彼が作った料理の箱だろうか。

「さて、そろそろ感動の再会といきますか」

ちょうど瑠璃が通り過ぎたところに鳥居を出現させると、慌てた玄が彼女を呼び戻しに走った。2人してわちゃわちゃと騒ぎ立てた後、意を決したように鳥居の中の闇へ。
まだ自らの足で歩くことなく死んでしまった僕は、最愛の家族と隔たれたこの世界で生きていく。情のない神の些細な気まぐれだとしても、今はそのことに感謝したい。
どこまでも続く蒼い草原の地平にぽつんと立った鳥居から、騒がしい声が聞こえてくる。闇の中にくぐもったそれが輪郭を取り戻すのを待ち遠しく、僕は草原を踏んだ。


(※もし読んでくださっている人がいたら、あなたへ)
最後まで読んでくださってありがとうございます。
そしてごめんなさい。この話は完全見切り発車の練習用で書いたので、書き出し当初からだんだん登場人物の設定が変わっていっております。
特に瑠璃は当初玄が働いているコンビニで彼と同じく働いていた設定でしたが、いつの間にか戦後のゴタゴタの中で打ち捨てられた子供設定になってしまってました。
それはなぜか。
設定が変わったあの日、私がヴァイオレット・エヴァーガーデンを見たからです。
何度見てもあれは良い。
戦後の苦しい時代を歯を食いしばって生きている人々、大切な人を失ってもなお立ちあがろうとする人々、キラキラ可愛いお姫様みたいなヴァイオレットちゃん。
彼女の保護者のようなホッチンズの立ち位置が羨ましい。ヴァイオレットちゃんにお腹いっぱいの幸せをあげたい。ホッチンズそこ代われ。
以上です。
ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?