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【長編小説】(52)青く沈んだ夜明けの向こう

るりねえはいつも優しくて、彼女の柔らかい腕に抱かれると小さな僕は心の底から安心できた。ここには世界の温かさの全てがあって、どこよりも安全で、心地よかったから。生まれたばかりの僕を背負って焼け野原を歩いた彼女の強さも、両親も家も失ってなお生きるために必死だった彼女の強かさも、決して僕の手を離そうとしなかった彼女の優しさもちゃんと知っていた。
僕はまだ幼く無知で、言葉もろくに話せなかったけど、彼女の思いだけはきちんと感じ取っていた。

朝、るりねえはこちらに微笑みかけ、何かを言うと外に出ていった。この狭く暗い空間を彼女が出入りするたびに、外から何かが焼けるような、腐ったような匂いが入ってくる。きっと外の世界は危険がいっぱいなのだろう。それでも彼女は出ていった。何かをもらってくると言っていた気がする。
ここは僕とるりねえだけの世界。ここにいれば安全で、安心だ。だから僕は目を閉じた。彼女が帰ってきたら一緒に遊べるように、今のうちにたくさん眠って体力をつけておこうと思ったからだ。
それから何が起こったのかよくわからない。気づくと、僕の目の前に”僕”がいた。安全で安心の場所は荒れ果てていて、”僕”は壁際で四肢をよくわからない方向に曲げて転がっていた。動かない”僕”を、僕はるりねえに背負われて見る世界よりずっと高い位置から見下ろしている。
両手を目の前にかざすと、それは大人の手の形をしていた。見下ろすと、無力な”僕”よりずっと大きな身体がある。早く大きくなってるりねえの手伝いをしたいと思っていた、僕の願いが叶ったようだった。
背後で扉が開く音がした。臭い外気が漂ってくる。るりねえが帰ってきた。見て、僕、大きくなったよ。
振り返ると、小さなるりねえが僕の腹の高さを通り抜けていった。足元を真っ赤なリンゴが転がる。彼女が取り落としたものだ。彼女はこれをもらいに行っていたのか。
るりねえはそのまま壁の方へ行き、そこに転がる小さな”僕”に手を伸ばした。
変な方向に曲がった四肢を直して、身開かれた目を閉じる。”僕”の隣に座り込み、小さな手を握り、宙を仰ぐ。彼女の視線は、天井を成している廃材の一つからぶら下がるロープの上で止まった。
嫌な予感がした。彼女が立ち上がり、ロープに手を伸ばす。何をしようとしているかはすぐにわかった。止めなければならない。彼女に駆け寄り、細く擦り傷だらけの腕に手を伸ばす。
大きくなった”今の”僕なら、子供の彼女を制止するのはわけない。それなのに、彼女の触れることができない。腕を掴もうとした手はすり抜け、部屋の隅から持ってきた台を弾き飛ばすことも、彼女の骨と皮ばかりの首にかかるロープの輪を切ることもできない。
何もできない。憧れだった大きな身体を手に入れたのに、何をすることもできない。

朝の気配をはらむ夜の光が、ひとりぼっちの彼女を照らしていた。青白く淡い光は彼女を美しい彫刻のように見せる。汚れた素足も、ボロ切れのような服も、煤けた頬も今は何もかもが美しい。
これが”死”というものなのだろうか。
台に乗り、首にロープの輪っかをかけた彼女は、何の躊躇いもなく足場を蹴った。ぐちゃぐちゃになったゴザの上に台が倒れる。彼女をぶら下げたロープが、天井が軋む。小さな少女の身体は苦しみにもがくことさえせず、ただ宙吊りになり、奇妙な痙攣を繰り返したと思ったらそれっきり動かなくなった。

「るり、ねえ……」

僕の喉から出たのは、いつもの僕のたどたどしい幼い声ではない。声変わりを前にした半端な子供のような、男とも女ともつかない軽薄な声色だった。
音は確かに空気を揺らした。ぎりぎりで保たれていたロープの繊維が、それを合図にしたように切れた。るりねえの身体が床に転がる。受け止めようとしても、抱き上げようとしても、僕の手は彼女をすり抜けてしまう。

「るりねえ。ねえ、どうして死んでしまったの?どうして……生きようとしてたじゃないか。どんな不遇にあっても負けないんだって、今朝だって、嬉しそうに笑っていたのに、どうして」
ゴザが剥げて剥き出しになった地面にうつ伏せる彼女がどんな顔をしているかわからない。
「どうして……僕が、死んだから?僕が……」

いつかの景色が脳裏をよぎる。彼女の背中から見る明け方の景色。焼け野原の上の青白い世界。あちこちの水溜まりが白み出した夜空を反射して、青く地平を照らしている。

『白、あなたがいるから、私、生きていけるよ。一緒なら何も怖くない』

淡い星あかりのような声が、東の空に向かって、静かに。

「そうか。僕が死んだから、るりねえは生きられなくなったんだね」

喉の奥に詰まっていたものが取れたような感覚。目の前に転がるこのみすぼらしい少女は、たった1人残された家族がいたからここまで歩いてこれた。いや、歩かなければならなかった。自分がいなければあっという間に死んでしまいそうな弱々しい存在を守るために、傷だらけの足に鞭打って歩き続けたのだ。
その長い旅路が終わった。あっけなく、無力に、跡形もなく。ここで終わっていく僕らは、誰に知られることも、誰に弔われることもない。

「それはまだ生きていますよ」

部屋の隅の暗がりから声がした。ハッとして見ると、そこには黒い靄が蠢いていた。

「ほら、背中に触れてごらんなさい。微かですが心臓の鼓動が感じられるはずです」

それが何なのかわからない。空間にポッカリと開いた穴のような口が発した言葉に、僕は何の疑問も抱かず言われたままに手を動かす。痩せぎすの、骨と皮ばかりの背中に触れる。薄いボロ着の向こうに、確かに微かに鼓動を感じた。

「生きてる。どうしよう。助けなきゃ」
「あなたはどうしたいのですか?」
分かりきったことを、靄は訊ねた。
「決まってる。るりねえを助けたい。守りたい」
「分かりました。では、ほら。もう触れますよ」
靄が言った瞬間、るりねえを通り抜けていた両手が実体を持った。慌てて彼女を抱き上げる。虚に開かれた瞳は白く濁っていた。
「どうしよう。どうしたらいい?どうしたら、このままじゃるりねえは」
「ああ……これは良くないですね」
いつの間にか背後に移動していた靄が、僕の肩越しに彼女を見下ろす。
「首の骨がポッキリいってしまってます。心臓は反射で動いているのでしょう。じきに止まります」
「病院に、お医者さんに診てもらわなきゃ」
「無駄ですよ。今の荒廃したこの国に、これを何とかできる医師も設備もありません」
「じゃあどうしたら!」
「……私なら、死にゆく彼女を引き止めることができます」

それが悪魔の囁きであることはすぐにわかった。この靄は僕らの身を案じて言っているわけではないと感覚的に理解していた。これには何らかの思惑が、目的が、企てがある。
けれど、そんなことはどうでもよかった。低く鄙びた老人のような声で甘く囁くこれが例え悪魔でも、鬼でも、死神でも関係ない。るりねえを救えるのなら、去ろうとしている彼女を引き止められるなら、僕は何にでも縋ろう。

「僕は、何をしたらいいの」
ふわりと顔の前で靄が揺れた。喜んでいるように見えた。
「話が早くて助かります。青海白」
「どうして僕の名前を?」
「知っていますよ。あなたが抱えている彼女の名前は青海瑠璃。あなたたちは先の戦争で両親を失い、互いを支えにここまで生きてきた」
「僕たちを見ていたの?」
「あなたたちだけではありませんが……あなたたちのような存在が私は好きなので、よく見ています」
「どうして……」
「さあ、白。あなたの願いを言ってご覧なさい」

腕の中で小さくなっていく鼓動を感じる。ボロ着から覗く痩せぎすの四肢を見る。朝が来ようとする世界から切り取られた、カビくさく閉じた室内を見渡した。

「るりねえと、一緒にいたい。失いたくない。死ぬなら、一緒に死にたい」
激情が押し寄せて、思考が濁流に飲まれていく。考えがまとまりかけては押し流されて、うまく言葉が紡げない。
「誰も僕らを傷つけない世界で、るりねえと一緒に、静かに暮らしたい。どんな悪も近づけない強さが欲しい。僕は……」
どの形容も合わないドス黒い激情が、ただ一つ、示したもの。
「僕は、るりねえと離れたくないんだ」

彼女に背負われて焼け野原を進んだ日々。このままくっついて離れなくなればいいと思った。ひとつになれば、それが叶う。僕の手の届かない場所で彼女が死んでしまうことが、何よりも許せない。

「素敵な願いですね。あなたは私が手を貸すに足る生物だ」

靄が言うのを合図にしたようにるりねえの身体が輝き出した。物語の中の奇跡に見るような光ではない。ドス黒い闇を絡めた、まだらの光だ。
輪郭がわからなくなるほど強く輝いたと思ったら、それは人の形を解いて、拳大の光の球に変わった。ふわりと浮くのと同時に腕の中から彼女の重みが消えて、焦る僕をよそに光はぐるりと回ると僕の胸の中に染み込んでいった。

「ちょっと、これはいった、い……」

胸に激痛が走った。止まりかけた心臓が叩き起こされて、動揺から誤作動を起こし、早鐘を緩めようとしたらまた止まる。そんな感覚だ。痛みに胸を押さえて疼くまる。手のひらに、リズムの異なる2つの鼓動を感じた。

「るりねえ?」

そこに彼女がいた。死に呼ばれる心臓を、死者の紛い物が繋ぎ止めている。俯いた先に落ちていた割れた手鏡を覗き込むと、鈍色だった僕の瞳は彼女の深い濃紺に変わっていた。
僕と彼女はひとつになった。これで、大切なこの人を死に連れ去られることはない。僕らはいつも一緒だ。これまでも、これからも、ずっと。

「その感情の根幹にある願いを叶えるためにもがきなさい。これは終わってしまうはずだったあなたたちに贈る、来るはずだった明日の続きです。足掻きなさい。苦しみなさい。その願いの果てにどんな結末があるのか、私はそれが知りたい」

低く鄙びた声の真意を聞きたくて顔を上げると、視界一面を青い花弁の嵐が包んだ。驚き、目を閉じる。しばらく経ってサラサラと流れる音が消え、目を開けると、だだっ広い視界に青い地平が広がっていた。
東の空に、まだ産声を上げぬ朝がある。西の空に、死にゆく夜の残滓がある。僕らは、僕たちだけの世界を手に入れた。


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